韓国人慰霊塔

所 在 地 糸満市摩文仁 沖縄県平和記念公園内    ( 平和記念資料館正面入り口真向かいに位置する)

建立年月日 1975年9月3日

設立団体  慰霊塔建立委員会 

 

*円墳型のモニュメントの周囲には韓国の各地域から集められた石が並ぶ。前方の 円形広場にはさまよえる魂のために故国を示す大きな矢印がある。

 

 【韓国人慰霊塔碑文】

1941年太平洋戦争が勃発するや多くの韓国人青年達は日本の強制的徴募により大陸や南洋の各戦線に 配置された。この沖縄の地にも徴兵、徴用として動員された1万余名があらゆる艱難を強いられたあげく、あるいは戦死、あるいは虐殺されるなど惜しくも犠牲になった。祖国に帰り得ざる魂は、波高きこの地の虚空にさまよいながら雨になって降り風となって吹くだろう。この孤独な霊魂を慰めるべく、われわれは全韓国民族の名においてこの塔を建て謹んで英霊の冥福を祈る。 願わくば安らかに眠られよ。                                                              1975年8月   韓国人慰霊塔建立委員会 

 


*韓国人慰霊塔建立委員会の常任顧問として碑の建立に尽力された高尾常彦氏は,、沖縄戦の体験者であり、彼を建立に駆り立てた背景に朝鮮人とのつらい交流体験があった。高尾氏は除幕式当日追、悼の辞でこのことについて触れておられる。

以下「追悼の辞」 より抜粋

 

「ひるがえって見ますれば、沖縄戦がはじまる直前、カデナ飛行場作業現場であなたがた(注=朝鮮人)とお会いしたのが初対面でありました。

 休憩のひと時、乾パンとサツマイモを食べながら互いになつかしい故郷の思い出を語り合いました。その時あなたがたが歌ってくれたアリランの歌声はいまも耳に残っております。

 しかしそれもほんの短い間のことで、米軍の上陸作戦によってわれわれは別れ別れになり、最後には摩文仁近くの山城の壕の前で偶然再会しました。ぼろぼろの着物に手には手榴弾を持っていましたね。顔は真っ黒でみられたものではありませんでした。だがわれわれは言葉もなく抱き合って無事を喜び合ったものです。その日は雨が降っていました。

 あなたはぼろ着のポケットから、私の好きな煙草を出してくれました。長いこと煙草らしい煙草をすったことのない私にとっては、このうえもない贈り物でありました。一本の煙草を三切れにして、涙ぐましいくらい大事に吸いました。死線をさまようわれわれは、互いに地獄で仏に出会ったような心地でした。

 それから二日後、われわれが食糧を求めて外出していた間に爆撃にあい、壕の入り口が崩壊し、全員が戦死していました。あなたが私に残した最後の言葉は「アイゴお母さん!」のたった一言でした。

 このことは30年の歳月が過ぎた今日もなお私の脳裏から離れません。あなたの家族はソウルにいられると言っておられましたが、その住所と、さらに大邱出身者たちの住所、姓名を書き記していた手帳は、私が負傷したときでしょうか紛失してしまい、家族に知らせることができず申し訳なく思っております。」