◎ 沖縄県読谷村にある「恨之碑」の正式名称
「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」
建立年月日 2006年5月13日
建 立 者 「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会
場 所 沖縄県読谷村瀬名波578-1
レリーフ制作 金城実
碑 文 安里英子 / 韓国語訳 河東吉
◎ 【説明文】 恨之碑の横に[碑文]と[説明文]が刻まれた二つの石碑がある. 碑文はここから⇨
石碑に刻まれた説明文
アジア太平洋戦争・沖縄戦において、日本は朝鮮半島から100万人以上と言われる人々を強制連行し、日本軍の軍夫・性奴隷として使役した。慶尚北道から軍夫たちが沖縄に送り込まれたのは1944年6月ごろ。
姜仁昌さんは慶良間諸島の阿嘉島に、徐正福さんは宮古島に配属された。沖縄の地上戦は1945年3月26日に始まった。
二人は、同胞たちの死を目のあたりにし、また同胞への処刑や虐待などに立ち会わされた。
私たちは朝鮮半島と沖縄に向かい合う二つの同一の追悼碑を建立することを決めた。そして不幸な過去を心に刻み、平和・共生への決意の印をと、多くの賛同者・団体の寄付によりこの碑を建てた。
レリーフは金城実さん。碑文は安里英子さん、翻訳は河東吉さん。2006年5月13日、韓国からの姜仁昌さん、徐正福さんと共に除幕式を行った。
◎ 恨之碑建立までの経過
強制動員被害者、自ら真相究明に乗り出す
アジア・太平洋戦争で日本は120万人余の朝鮮人を、日本、中国、東南アジア、サハリン、南洋群島など広範な地域に、軍人、軍属、日本軍「慰安婦」、勤労挺身隊、企業労務者などとして強制動員した。日本国家と企業は、いまだに真相究明と謝罪、補償、教育などについて責任を果たしていない。被害者と遺族は、自ら真相究明に乗リ出さざるを得なかった。
慶尚北道英陽郡から沖縄へ動員された姜仁昌もその一人である。1996年4月、姜仁昌は日本軍の「留守名簿」を調査し、慶尚北道から沖縄へ動員された約3000名の朝鮮人名簿を見つけた。
姜仁昌の証言によって日韓の市民が動き出す
「稲穂を盜んだという理由で処刑された同僚たちのことが忘れられない。今も異郷の地でさまよう犠牲者たちの遺骨を故郷に持ち帰リ弔いたい」
1997年7月、姜仁昌の証言と切なる願いが、日本、韓国、沖縄の市民の心を動かした。犠牲者の遺骨は見つけられなかったが、韓国と沖縄に祈念碑を建立することが決まった。もう一人の被害者、徐正福も賛同した。
英陽と沖縄に「恨之碑」を築く
1999年8月12日、日本、沖縄の市民が真心を集め、慶尚北道英陽郡に「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨之碑」を建立した。被害者たちを追悼し、過去の過ちを記憶し、平和な未来へ向かっていこうという思いを込めた。
2004年7月3日、3基からなる「恨之碑」の左側の造形物が、沖縄に動員された被害者の名を刻んだ「余恨碑」に生まれ変わった。姜仁昌が中心となって推進し、慶尚北道と英陽郡が支援した。そして、2006年5月13日、読谷村に「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」が建てられた。
姜仁昌(カンインチャン)
1920.12 慶尚北道英陽郡英陽面生まれ
1944.06 沖縄に強制動員、数か月後、阿嘉島に配置
1945.04 沖縄の捕虜収容所に移送
1946.03 釈放、帰国
1991.12 「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償 請求訴訟」の原告となり、日本国を訴える
1992.08 同僚たちの虐殺現場、阿嘉島を訪問
1997.07 日本、沖縄の市民と「恨之碑」建立活動
徐正福(ソ・ジョンボク)
1920.04 慶尚北道達城郡嘉昌面生まれ
1944.06 沖縄に強制動員、数か月後、宮古島に配置
1945.09 沖縄の捕虜収容所に移送
1946.03 釈放、帰国
1991.12 「アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求訴訟」の原告となり、日本国を訴える
1997.12 日本、沖縄の市民と「恨之碑」建立活動
◎ ブロンズ像に込められた意味
同じ形をした二つのブロンズ像は、沖縄戦をテーマに活動を続けて来た金城実の作品である。韓国の彫刻家・許熲植(ホギョンシク)の協力を得て「恨之碑」が製作された。 崩れ落ちてすがる女性は朝鮮民族の悲哀を象徴する。男性は連行されながらも堂々としている。決して奪うことのできない人間の尊厳と誇り、隠された真実を明らかにする目、両腕を縛っても心は決して束縛できないことを表している。むしろ加害者である日本軍が脅えている。
◎ 「恨(ハン)」とは?
日本では単に「怨恨」という意味であるが、韓国では、悲哀、憤怒、後悔、悔恨、無念などが長く胸の中に留まリ、しこリとなった心情を意味する。
◎ 日本で唯一大規模な地上戦の地となった沖縄
日本の最西端、韓国済州島から南へ800kmほど離れた場所に位置している。サンゴとジュゴンが暮らす美しい海に囲まれた沖縄は、約 500年の歴史と固有の文化を持つ「独立国家」琉球王国だった。しかし、日本帝国主義はその地位をはく奪し、1879年、沖縄県として日本に編入した。
沖縄は、日本が引き起こした侵略戦争において、日本で唯一大規模な地上戦が繰リ広げられた地である。1945年3月末、慶良間諸島を陥落させた米軍は、4月、読谷村、嘉手納町に上陸した。地形が変形するほど猛烈な爆撃があリ、熾烈な戦闘によって20万人以上が犠牲になった。日本軍の無謀な作戦によって数多くの住民が戦闘に巻き込まれ、強制集団死も起こった。
日本が敗戦し、1952年、連合国軍の占領から独立した後にも、沖縄は 1972年までアメリカの直接統治下にあった。日本は、総面積の0.6%に過ぎない沖縄に米軍基地の約74%を一方的に押し付けている。沖縄は、現在も約10%の土地が米軍によって「占領」されているのである。
読谷村瀬名波にある「恨之碑」
英陽「恨之碑」
姜仁昌氏
徐正福氏
恨之碑の周りには朝鮮半島各地から集められた石が置かれている。