=2017年度平和の礎= 7年ぶりに朝鮮人15名追加刻銘

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沖縄恨之碑の会が陳情していた

権云善(クォンウンソン)さんと朴煕兌(パクヒィテ)さんのお二人が

戦死認定の公式書類がない中 

ようやく県が弾力的運用に踏み切り

平和の礎に刻銘されました。

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【これまでの経過とまとめ】

経過につきましては、沖縄県及び県議会に提出した陳情書(下方に掲載)に、おおよその経過が書かれておりますのでご参照ください。

 

以下は陳情書が採択され、刻銘決定に至った以降のまとめと、刻銘決定の意義についてです。

 

  • 沖縄県議会 朝鮮人犠牲者刻銘陳情書採択  

 沖縄県知事と現議会に提出していた「朝鮮人犠牲者刻銘についての陳情書」が、参考人招致を経て2016年12月22日議会で採決されました。

 

  •  刻銘審査会で刻銘決定!

  年が明けた2017年3月、2017年度の刻銘審査会にて権云善(クォンウンソン)と朴煕兌(パクフィテ)さんお二人の刻銘がついに認められました。

 このかん、お二人の遺族から平和の礎への刻銘希望が出ながらも「沖縄戦で死亡したことを証明する書類」がないという理由で申請自体を受け付けてもらえませんでした。こうした厳しい壁にぶつかりながらも、恨之碑の会では県の平和推進課と話し合いを何べんも持ち、県議会への陳情書の提出、署名活動を粘り強く推し進めてきました。その結果、県議会文教厚生委員会の参考人招致によばれ、議員の皆さんから一定の理解を得ることができました。こうした成果が刻銘審査会の決定に大きくつながったものと思います。「戦死認定がなされていないために沖縄で亡くなったという公的な証明が取れない」という厳しい条件でありましたが、沖縄県はついに朝鮮半島出身者の刻銘について弾力的な運用に踏み切りました。すなわち総合的に見て沖縄で亡くなったと判断できれば刻銘ができるようになったということであり、今後の朝鮮人犠牲者の刻銘に道を開いたと言えます。これは大変大きな一歩と言わなければなりません。なぜなら戦死認定を受けた朝鮮人は全体のわずか一握りに過ぎないからです。

 

  •  戦後切り捨てられた朝鮮人

 朝鮮半島から沖縄戦に動員された人たちは、戦後その生死すら確認されず、いまだ調査されないままになっています。遺族の元へは日本からの生死不明に関する通知は一切ありませんでした。遺族側が肉親について問い合わせをして初めて所属部隊や任地がわかるのですが、これとても複雑な何種類かの申請書類と言葉の壁を乗り越えなければなりません。しかしそうしてやっと得られた回答には責任がみじんも感じられない「復員又は死亡記録なし」と単に記されているだけです。中には家族には「死亡」も知らせず勝手に靖国に合祀されている場合もあります。当時本人が軍属として当然受け取るべき俸給が未払いのまま供託されている旨の記録があっても、補償問題は国家間で解決済みとして受け取ることさえできていません。ましてや死亡一時金や遺族年金などは外国籍を理由に一切支給対象から除外されています。今回朝鮮人犠牲者の平和の礎刻銘問題にかかわって、深く再認識したのはまさにこうしたことでした。「皇国の民」として植民地朝鮮から連れてこられた若者たちが、いまだに氏名すら、ましてや遺骨も全く調査されることなくこの地で犠牲になりがらも、「連れて来た側である日本国家の責任」が果たされていないのです。戦後71年たった今も状況は変わっていません。

 

  •  「平和の礎」事業は 朝鮮人犠牲者に向き合ってこそ!

 沖縄県は日本政府が認定したわずか500人に満たない遺族を対象に平和の礎作業を進めてきました。そのため朝鮮人の刻銘作業は事実上終了になっていたのです。県はいまこそ厚生省から離れ、独自に本格的な調査を始めなければなりません。戦争で破壊つくされ肉親を失った悲しみを一番よく知っている沖縄だからこそ、日本政府の朝鮮人切り捨て策を許してはなりません。朝鮮の人たちとその痛みを共有できなければ私たち沖縄県民も「責任を取らない日本」の一員になってしまいます。 

 その意味で今回の刻銘決定は大きなきっかけとなりました。沖縄県が自身の立ち位置をはっきりさせてこそ真の意味での平和の礎になっていくことでしょう。同じように沖縄の私たちも一人一人何をするかが問われていると思います。(沖本富貴子)

 


【2016年9月23日沖縄県議会に提出した陳情書】

2016年9月23日

 沖縄県知事 翁長雄志 殿  

沖縄県議会 議長 新里米吉 殿

 

           「平和の礎」への朝鮮人犠牲者刻銘についての陳情書

 

                                                                                                                   NPO法人 沖縄恨之碑の会

                                                                                                代表 安里英子

                                                                                                    理事 平良修 連絡先

                                                                                                           沖縄県南城市佐敷字津波古944 安里気付

 

 本年度「平和の礎」へ新たに84名の犠牲者が刻銘されましたが、今年もその中に朝鮮半島出身者の名前がありませんでした。この8年のあいだに朝鮮人の名前は1人追加されただけで、447名のままとなっています。「国籍を問わずすべての戦没者の氏名を刻んで永久に残す」とされた「平和の礎」作業は、朝鮮半島から動員されてこの沖縄戦で犠牲になった人々については立ち止まったまま、戦後71年たった現在も大きな課題として残されています。

 昨年10月「韓国人戦没慰霊大祭」に招待され来沖したパク・チュナさん(沖縄戦で犠牲になられた朴煕兌=パク・フィテさんの娘さん=71歳)とクォン・スチョンさん(沖縄戦で犠牲になられた権云善=クォン・ウンソンさんの息子さん=78歳)のご家族が平和の礎をご覧になり、ご自分たちの父の名前も平和の礎に刻銘してもらいたいと申し出をされました。 

 申請のための手続きを始めたところ沖縄県の「刻銘対象者認定要領」3条4「外国人の戦没者に係る申告は(中略)沖縄戦で亡くなったことを証明する資料を添付(後略)」との条件が整わないために、申請ができない状態となりました。そのため何度か平和推進班の方とも交渉を持ちましたが、今年3月に開かれた刻銘審査会でこの件が話し合われ「証明資料とは戸籍簿等の公的な書類のことであり、総合的に判断して沖縄戦で死亡したと考えられる場合でも書類の不備となり申告票は受け付けられない」と結論されました。結局刻銘審査会は従来通りの立場を繰り返しただけでした。

 クォン・ウンソンさんの場合は32軍直轄の朝鮮人部隊である特設水上勤務第104中隊第3小隊に所属していましたが、ある日壕の前に整列して中に入ったとたんに爆弾が落ちて亡くなったということです。またパク・フィテさんは同じく特設水上勤務第104中隊に所属しておりましたが、第1小隊に属していたために渡嘉敷島にいました。渡嘉敷島はよく知られているところですが、山に逃げ込んだ日本軍は食糧事情が極端に悪く飢餓状態で餓死者がでるまでになっていたのですがそうした中、パク・フィテさんは芋を盗んだとして同郷の仲間4人と共に日本軍に首を斬られました。戦後、家族のもとに日本政府からは一切知らせがなく待てども帰ってこない日々が続きました。沖縄戦での様子は元の同僚を探し当てたりしながらやっと分ったということです。日本軍に動員されて犠牲になった方を家族が戸籍整理する場合、一般的に韓国では除籍理由である死亡の際の理由を、日本の戦死認定がないためにやむなく国内で何らかの形で死亡したことにして提出するそうです。そのため戸籍からは沖縄戦で死亡したことを証明することができません。 

 しかし厚生省援護局に問い合わせたところ、お二人ともに特設水上勤務第104中隊に所属していたということが証明され、合わせて戦争当時受け取るべき俸給が東京法務局に供託されているということも分りました。総合的に判断して沖縄戦で犠牲になられたことは間違いありません。(これらに関しては添付書類をご参照ください。)

  日本政府は、皇国の臣民として120万人に及ぶ朝鮮の人々をアジア太平洋戦争に動員しながら、戦後はその生死すら確認せず、未帰還者の調査も行いませんでした。日本軍の兵士、軍属であったにもかかわらず外国籍であるからとして補償・救済の道から排除しています。当時の俸給すら供託して払い戻し請求にも応じていません。そのため、沖縄では何人が死亡し、何人が未帰還となっているか不明のままです。厚生省が認定している沖縄での死亡者は450名余りに過ぎません。

  しかし実際は、例えば2,800名ほど記載されている「船舶軍(沖縄)留守名簿」(朝鮮人名簿)には部隊丸ごと氏名欄の下に死亡推定の印鑑や情況不明をあらわす不の印鑑が押されています。また部隊の表紙に「大部分死亡か?」などといったメモも残されています。死亡認定を受けることなく行方不明のままになっている人たちは相当数に上ると思われます。「公的死亡認定書類」の壁はこうした日本政府の朝鮮人切り捨て策によってもたらされたものです。この壁を沖縄県が独自に取り払わない限り、「平和の礎」への朝鮮人刻銘作業は前に進むことはできないだろうと思われます。

  沖縄県は、沖縄出身者の刻銘については弾力的な運用をしていますが、朝鮮半島の人々についても独自の基準を設けて弾力的な運用をしていただきたいと思います。「国籍を問わずすべての戦没者の氏名を刻んで永遠に残す」とする「平和の礎」事業が、文字通り実現されますよう積極的な施策と推進をお願いいたします。

 

 つきましては、沖縄県に以下のことを要望いたします。   

 1、「平和の礎」にクォン・ウンソンさんとパク・フィテさんの刻銘をしてください。   

 2、朝鮮人の刻銘基準については弾力的な運用をしてください。   

 3、沖縄戦に動員された朝鮮人とその犠牲者について沖縄県は独自に調査を進めてください   

 4、沖縄の戦場から帰還できなかったすべての朝鮮人犠牲者の名前が刻銘されるよう積極的な施策を講じてください。


関連報道記事

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/65361

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-518489.html