魂魄の塔


所在地   糸満市米須 平和創造の森公園の近く

建立年月日 1946年2月

建立者   金城和信 真和志村民

管理者   沖縄県遺族連合会

合祀数   35,000柱

 

【解説】

戦後一番早く作られた納骨慰霊の塔と言われている。沖縄戦終焉の地と言われる南部一帯。朝鮮人部隊であった特設水上勤務102中隊、104中隊(2個小隊)も、1945年6月20日前後、山城、新垣で部隊が壊滅しており、その時相当数が犠牲になった。この魂魄の塔に朝鮮人の遺骨も納骨されたと推定される。

 

 【魂魄の塔作られた経過】 那覇市のホームページより

 戦後真和志村民は食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。しかしこの一帯は多くの 軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所だったために、相当数の遺骨がそのままの状態で放置されていた。 住民は米軍に遺骨収集作業を要請したが、それが反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれた米軍は当初 許可しなかった。しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てくるため、作業が進まず、1946年 2月23日になってようやく遺骨の収集が許可された。
 遺骨は一箇所に集められ、大きな穴が掘られ、その中に収められた。 それでも収まりきれず、大きな骨の山が築かれたために、さらに周囲を石で囲った。周囲から石をかき集め、 納骨堂とし魂魄の塔と名付けられた。「魂」は「たましい」、「魄」は浮遊霊の意味である。
 摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての、都道府県の慰霊碑がある。 しかし唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえてあげるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑といえるかもしれない。
 住民、軍人、米軍、韓国、朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が 軍民、人種を問わず葬られた、沖縄最大の塔である。これが戦後もっとも早く、 住民の手で作られ、平和への想いを込めた塔として、他府県の慰霊碑とは多少異質である。