青丘之塔


所在地   宜野湾市嘉数1065 嘉数高台公園内

建立年月日 1971年3月

建立者   日本民主同志会

管理者   沖縄県平和祈念財団

 

沖縄戦で亡くなった朝鮮半島出身者386柱を追悼する慰霊碑

 

【碑文】 

<前面> 韓民族出身戦没者慰霊 青丘之塔 西田玉堂 敬書  <青丘之塔の銘文> 嗚呼ココ沖縄ノ地ニ太平洋戦争ノ末期 カツテ日本軍タリシ韓民族出身ノ軍人軍属386柱ガ 山河ヲ血ニ染メ 悲シクモ散華シ 侘ビシク眠ッテオラレマス ココニ思イヲイタシ 日本民主同志会ハ 38度線板門店ノ小石38ケヲ 写経トトモニ碑礎ニ鎮メ イデオロギート国境ト民族ヲ超越シ 人道主義ヲ尊奉 哀シキ歴史ヲ秘メタコレラノ御霊ヲ 慰霊顕彰スルタメニ 最モ激烈ナル戦闘ヲ展開シタ戦跡嘉数ノ高地ニ 志ヲ同ジクスル諸賢ヲアワセテ 関係機関並ビニ地元嘉数地区ノ御協力ヲエテ 韓民族出身沖縄戦没者慰霊碑「青丘之塔」ヲ建立シ 永久ニ英勲ヲ讃エマス       昭和46年3月吉日  松本明重 識 / 川崎梅村 書

 

【解説】

この塔については詳しいことがわかられていないが、趙誠倫が、2012年 『東アジアの間地方交流の過去と現在』(津波高志編、2012年、彩流社)に、「沖縄最初の韓国人慰霊の塔青丘之塔」を発表した。それによって松本明重が建立に力を注いだことが明らかになった。しかし碑文にある朝鮮人386名の出所については不明のままであり、また「朝鮮人の碑」建立に至った直接の動機などの詳細は明らかにされていない。

 

◎以下は、「沖縄最初の韓国人慰霊の塔青丘之塔」(趙誠倫)の一部を要約した。

  

 青丘之塔は、1975年に建てられた韓国人慰霊の塔、1995年の平和の礎、2006年の恨之碑との関連でいえば、一番最初に建てられた朝鮮人慰霊の塔である。建立の中心人物は、日本民主同志会本部中央執行委員長・松本明重。彼は、嘉数高台公園に「京都の塔」(1964年)が建てられた当時は「京都府沖縄慰霊塔建設奉賛会」の副理事を務め、のち「社団法人沖縄京都の塔奉賛会」理事長となった。 

 「日本民主同志会」は1971年1月15日、京都において結成され、「日本精神を高揚し、祖国と民族の繁栄を目標」とした。同会は沖縄を「日本の霊地」と定め、1948年から1989年まで90回にわたり沖縄参拝団を組織し、松本が死んだ後も毎年沖縄慰霊旅行を実施し、100回を達成した。

 

【嘉数地域の朝鮮人】

 米軍が1945年4月1日、嘉手納・北谷の海岸から上陸した際、水際作戦を取らず、最初の大きな戦闘が嘉数高台で16日間にわたって繰り広げられた。嘉数高台にはトーチカや壕など日本軍の陣地が一部が残っている。この陣地づくりに朝鮮人も動員されたという。(『哀号・朝鮮人の沖縄戦』福地廣昭、月刊沖縄社、1986年)

 

以下 同書より。

「中部で朝鮮人軍夫が多く使われたのは首里防衛の外郭で激戦地になった嘉数台地の陣地構築であった。」「軍夫は那覇から軍用トラックで通っていた。当初軍壕に使う材木、松の木を運搬していた。平時には部落民も自由に入れない聖地、拝所の松林から伐採しはじめ、各地の民間から徴発された馬車に積んで運んだ。朝鮮人軍属が伐採、馬車まで運搬した。彼らは、民間人より遅くまで酷使されていた。ある日、作業に怠けた朝鮮軍夫が壕の前にしばりつけられているのを部落民が見て「そんなことしないで叱ればいいのに」と見かね、区長が兵隊に注意したこともある。嘉数高台の周囲に30個所の壕をつくるために、一日数千人の民間人が動員されていたころである。ちょっとでも朝鮮人が怠けると、兵隊が勝手にしかりつけ、みんなの前で制裁していた。」