建立趣意書及び完成までのあゆみ


   【趣意書】  2005年1月24日 

  

「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会

 

1、 1999年8月12日に、「恨(ハン)之碑」を一基、韓国・慶尚北道・英陽(ョンヤン) 郡の高台に建てることができまし     た。慶尚北道は、沖縄へ最も多くの「元朝鮮人軍夫」の方々が、強制的に連行されたところです。姜仁昌(カン・インチャン)さんと徐正福(ソ・ジョンボク)さんは、生きて故郷にお帰りになりましたが、苦難の同胞を偲び、恨之碑を、地元と沖縄にそれぞれ一基ずつ建てたいと切望されたのでした。戦後補償の実現を求めて闘い続けている韓国の方々や地元自治体の協力は大きく、公用地の提供、公費補助などを受けました。日本各地、沖縄の人々の協力がありました。見晴らしのよいこの丘の上には、日本植民地下、独立運動に立ち上がったために殺害された150名の地域の方々の刻銘碑もあります。

  除幕式で私たちは、 さあ次は沖縄に建てようと確認しあったのでした。 韓国の方々の深い恨を心に刻みながら、共生するアジアへの長い努力の始まりにしたいと願っています。 

 

2、 私たちはかっての日本植民地政策によって、 独自の文化や言語を奪われ、 恐ろしい差別の犠 牲を強いられた上に、今なお「南北分断」の悲劇を負っている隣国・朝鮮半島の方々を思います。そしてアジアに新たな危機がつく り出されようとしていることに心を痛めます。米国など軍事大国の横暴と日本政府の後押しによって、 かの地の方々の尊厳が、ないがしろにされる事態を、また起こさせるわけにはいきません。このような事態は、 他の国々にも、沖縄の住民たちにも、影響をおよばすことになります。

 

3、 私たちは、「恨之碑」建立の意義を、「沖縄戦の実相をアジアの視点から深め、歴史の教訓を後世に語り継ぎ、平和な沖縄・アジアをつくり上げる共同の取り組み」と位置づけます。そして、「碑」の建立は、再び「被害者にも加害者にもならない」という強い意志表示でもあります。国境をも世代をも越えてつながり、和解と相互理解に立つ共生、のエネルギーをと望んでいます。沖縄での「恨之碑」建立が、そのために大きな役割を果たすことを願って止みません。

  

4、 この事業推進のため、学び合いの場としてほうせん花を表わす「てぃんさぐとポンソナの会」を始めることにしました。ほうせん花で爪を染める共通のなつかしい習慣に思いをこめました。双方の文化、歴史、関係史そして現状の学びを通して、新しい、歴史と関係をつくりたいのです。その徴としての 「恨之碑」 です。

  

5、  生還されて、正義の回復を訴え続けてこられた元軍夫たちや、強制連行の被害者たちは、すでに今、あまりにも年老いています。姜仁昌さんと徐正福さんたちを、沖縄の「碑」の除幕式にお招きするためには、急がなければなりません。 多くの方にこの「恨之碑」沖縄建立の趣旨にご賛同いただき、事業へのご参加を呼びかけます。「恨之碑」沖縄建立事業にかかわる費用をつくりだすために、ご芳志を拠出してください。 

 

 

『希望―恨之碑建立1周年記念報告集』  

200761日刊行

編集/発行 アジア太平洋戦争・沖縄被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」建立をすすめる会

より転載        

 

 

 

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 【背景】

 

幾多の悲劇を生んだアジア太平洋戦争。そして沖縄戦。その終結からすでに半世紀以上が経過しました。この間、その実相を明らかにし、犠牲者を追悼するとともに、歴史の教訓を後世に語り継ぐ努力が多くの方々によって積み重ねられてきました。沖縄県による「平和の礎」も、こうした取り組みのひとつであり、また、その他にも多くの先つ取り組みがありました。例えば座間味村阿嘉島での戦没元朝鮮人軍夫の方々の招魂祭と韓国・慶尚北道・慶山(キョンサン)郡での慰霊碑建立、渡嘉敷島での「日本軍慰安婦」のための「アリラン慰霊のモニュメント」建立、久米島の「久米島在朝鮮人痛恨の碑」、等です

 しかし、沖縄に数千人から数万人が連行されたといわれる朝鮮人軍夫の存在と悲劇は今なお闇に埋もれたままです。 彼らは、丸腰のまま敵襲にさらされ、満足に食料も与えられないままで港湾荷役や武器・軍需物資の運搬、また掩蔽壕掘り等に従事させられました。この中で、多くが戦死し、餓死し、さらには日本軍によって「スパイ」、「軍規違反」の名目で処刑される者すら存在したのです。しかし、このような事実が今なお公式の記録にほとんど残されていません。 日本政府は朝鮮半島から沖縄戦に何人動員し、何人死に至らしめたのか、だれが戦没し、だれが生きて帰還したのか、このような事実を明らかにしていません。沖縄の 「平和の礎」の刻銘も、朝鮮半島出身者はわずか423名(2004年6月23日現在)にとどまっています。

 

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 【経過】

 

◎ 1997年7月

 韓国慶尚北道英陽郡在住の姜仁昌(カンインチャン)さんが沖縄で開かれた「平和と民主主義をめざす全国交歓会」に参加。阿嘉島で同胞12人が日本軍によって処刑されるのに立ち会わされた体験を証言し、今も異郷でさまよう犠牲者たちの遺骨を故国に持ち帰り手厚く弔いたい、そのために、日本の心ある人々の支援をお願いする」と痛切な訴え

 

◎ 同年12月

  再び訪れた姜仁昌さんとともに、遺骨調査に取り組む。この調査には、姜さんと同じ慶尚北道出身で、宮古島ヘ連行され、やはり多くの同胞が海の藻屑との消えるのを目の当たりにした徐正福(ソ・ジョンポク)さんも参加。徐さんもまた「亡き同得胞の霊を弔いたい」と強く願っていた。阿嘉島での調査は、処刑現場の特定など多くの成果を得たものの、遺骨そのものはもはや阿嘉島には存在せず、戦後間もなく地元の人によって発掘さた、沖縄のどこかの慰霊塔に合祀合祀されたと推察することがでた。  この調査を経て「遺骨を故国に持ち帰りたい」との思いに一区切りをつけ、韓国と沖縄の双方に追悼と祈念のモニュメントをということになった。しかしそれは日本帝国に侵略されたという同じ歴史体験を持ちながらも日本に組み込まれた沖縄にとっては、日本帝国による被害者であり、韓国に対しては加害者であった沖縄戦の事実をふまえつつ、「共生への道を求めていく課題」を引き受けることになる。その上でモニュメントの製作は、沖縄の彫刻家金城実さんに引き受けていただくことになった。

 

◎ 1998年11月

金城実さん他事務局メンバーが韓国内での建設予定地である慶尚北道英陽郡を訪れ、姜さん、徐さん、遺族会の方々と、モニュメントについて具体的に話し合い、碑の名を「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨之碑」と決定。 

 

◎ 同年12月

那覇市の「てぃるる」にて、呼びかけ人・事務局中心メンバーの参加のもと会議。「太平洋戦争・沖縄戦被徴発者恨之碑建立をすすめる会」が発足。 

 

 ◎ 1999年3月

全国募金活動本格開始。 この間、碑の製作も同時進行。5月中旬には、 金城実さんによるレリーフが完成。その後、プロンズ化や碑の設置、全体の設計を韓国青年彫刻家たちが担う。時間がない中での文字通りの突貫工事であ。た。募金も、実質5か月で、全国33都道府県、約700名から総額約700万円が寄せられた。

 

◎ 同年8月12日

慶尚北道英陽郡で「恨之碑」完成除幕式。

 

◎ 2001年12月 

事務局数名による英陽訪問。小規模な追悼式を行う。

 

◎ 2001年11月

呼びかけ人共同代表の平良修他数名の英陽訪問。小規模な追悼式を行う 。同時に沖縄での建立を急ぐことを確認。

 

◎ 2003年11月

豆多敏紀全国事務局長、平良修共同代表らが、英陽訪問。韓国の関係者たちと交流した。

 

◎ 2004年7月

平良修共同代表らは、英陽訪問。沖縄に連行された慶尚北道出身者名を刻銘した「餘恨碑」除幕式に列席。

 

◎ 2004年8月

碑名を「太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」に改め、新呼びかけ人会を開いて、全国募金を開始

 

◎ 2006年5月13日

沖縄県読谷村瀬名波「恨之碑」完成除幕式

 

 

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