「恨之碑」制作にあたって

 

                      彫刻家 金城実

 

  偶然か、それとも風と川の流れにさそわれて来たか、「恨之碑」を制作担当することになった。筆者は20 年前から朝鮮の言語文化の「恨」に魅せられてきた。それは一冊のであった。その後わが沖縄語にこれに値いする言葉があるかずい分と追求してきたが、せいぜい「肝苦さ」ぐらいだった。

 

 確かにもともと沖縄語には、人情としても「かわいそう」というのはなかった。それは上下関係を意味する同情で、 「肝苦さ」は水平志向の感情である。Sympathy ではなく Empathyで相手の苦しみに入り込んで、自分も苦しみを共有するということになる。それ以上でも以下でもない。それどころか最近ではマスメデアが観光コマーシャル、 映画なとで盛んに伝えるのが優しい沖縄、癒しの沖縄、 チュラサン沖縄。美しい海と空、心情という風に、沖縄の米軍基地の植民地で苦しんでいる姿と抵抗感覚をそぎ落としてしまっている沖縄の言語感覚にはうんざりする。

 

そうした沖縄の状況で、「恨」の制作にめぐり会えた。その「恨」とは物の本にはこうある。『「恨」 は韓国民衆の被抑圧の歴史が培った苦難と孤立、絶望の集合的感情、同時に課せられ不当な仕打ち、不正義への奥深い正当な怒りであり、具体的な復讐の対象を措定する怨とは区別され、挫折した夢が望むべき新たな生を実現させる感情の営みを「恨き(ハンプル)」と言う。長い受難の歴史の中で抑圧された朝鮮民衆の抵抗意識を生み、時に民衆蜂起という形で発現した。 韓国の民衆神学では「恨」をイエスに表象された「民衆」の受難と死〈恨解き〉、民衆蜂起として「民衆の復活である」』 と説いている。

 

 「恨」についてこれだけ知るとわが沖縄に「恨」に値いする言語がないことに愕然とする。比較言語文化から見えてくる民衆の姿が逆照射される思いだ。筆者が 20年前から追い求めた「恨」であったが、これまで創作した多数作品、例えば 「戦争と人間に関わる作品」、「チビチリガマ世代を結ぶ像」や長崎の原爆の爆心地に立てた「長崎平和の母子像」も「恨」に近づけるものではなかったことをここで告白しておく。 

 

 そこで今度の「恨之碑」 は被害者と加害者の緊張関係として3人の人物の構成にかけた。 2.7m×2mの空間に刻まれた3人の中の主人公は、日本軍によって銃殺される場所へと連行される若者で、肉体的、精神的にもたくましく、 美しい。 骨相学、解剖学的、 さらに肉付けにいたるまで計算したものである。

 

 若者は目かくしされ、縄でしばられた腕は後にまわされ、脚元に座して慟哭する母に耳をかたむけている。処刑場に進む若者は、誇り高く胸を張る。母はありたけの悲しみを含めてアイゴ! を叫ぶ。そのすき間に銃で若者になぐりかかる日本兵は怯えている。若者の人間的尊厳は死をも呑み込んで抵抗の意をゆずらない。

 

 チマチョゴリ(民族衣装)を着た母から若者カ朝鮮民族であることは容易に分かる。こうして作品のドラマは完成された。しかしわが沖縄の民衆は、「恨」の啓示を知ることができるだろうか。この課題は作者である筆者にも向けられた。この作品を通じて、朝鮮韓国の民衆とヤマトとウチナーの民衆の中に、何がしの運動が発展できれば、作者として幸いである。

 

 

『希望‐恨之碑建立1周年記念報告集』

「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」

(建立をすすめる会/編集・発行2007年6月1日発行)より転載

 


金城実 紹介

1939年生、沖縄県読谷村在住。沖縄県浜比嘉島に生まれる。京都外国語大学卒業後、西宮市立西宮西高等学校や近畿大学附属高等学校で英語を教える傍ら、彫刻制作を始める。1986年に沖縄県読谷村で彫刻制作を村の人達と共に始める。沖縄靖国訴訟原告団の団長。自宅アトリエに隣接する野外展示場がある。書籍に「沖縄を彫る」、「 彫塑金城実作品集」、 「知っていますか?沖縄一問一答」、 「民衆を彫る: 沖縄・100メートルレリーフに挑む」などがある。