1945年5月 アメリカのライフ誌に掲載された写真


本部町健堅に埋葬された沖縄戦犠牲者たち  =写真に残された墓標=  

 

 沖縄戦には多くの朝鮮人が動員され32軍傘下の様々な部隊に配置されたが、その中でも最大の部隊だったのは朝鮮人軍属で構成された特設水上勤務第101~104中隊(約2800名)である。この部隊は慶尚北道から若者たちが集められ、大邱で部隊の編成がなされてそのまま沖縄に移動してきた(1944年8月)。水勤隊の当初の主な任務は軍需物資の陸揚げ、特に当時は大きな船が接岸できる港は那覇港以外になく、上陸用舟艇に積み荷を移し替えて陸揚げしていた。32軍の沖縄配備で兵と物資が続々と沖縄に輸送されてきた時期である。真夏の炎天下にさらされて一日11時間、まともな食事や十分な水も与えられず重労働に従事させられた。

 101中隊は那覇港に着くや宮古八重山に移動して行った。102中隊は途中奄美、徳之島で下船しその地で運搬、陣地作りに従事した(1944年12月末まで、その後那覇港に移動、すぐに名護、東村エーラ山に分かれて駐屯、坑木伐採、陣地作りに従事)。104中隊は那覇港につくと読谷村の渡具知と本部健堅に分かれて駐屯し、主に港で軍需物資陸揚げ作業についた。12月までの約4か月間、本部健堅(けんけん)地域に駐屯したのが第2小隊の約200人余りである。渡久地港の作業のほか、伊豆味や真部山などで独立混成第44旅団国頭支隊の陣地構築に駆り出された。住民は彼らが十分な食事が与えられず、体罰を受けながら牛馬の如く酷使され、疲れきっている姿を目撃している。

 健堅で当時を知っている方を訪ね証言を集めていた折りに、地元で戦争体験の語り部として平和活動をしていらっしゃる友利哲夫さんから14人の墓標の写真があり、その中に朝鮮人の名前もあるようだと教えてもらった。友利さんは、渡久地港で疲れ切った様子で座り込んでいた朝鮮人が日本兵に足蹴にされているのを目撃している。また船の上で並ばされた朝鮮人が、ロープの束ねたようなものでぶたれているのもみた。端にいた朝鮮人がぶたれた勢いで海に落ちたので、沖縄の人が助け上げたところ、今度は助けた沖縄の人が日本兵にたたかれた。その様子を見て、兵隊は神兵と教えられたのに怖いなあと心底思ったそうだ。

 ところで写真を見ると朝鮮名らしき人が3人認められる。墓標が1945年1月22日沈没した彦山丸の犠牲者であることが分かったのは、竹内康人氏が公表している「強制連行期朝鮮人死亡者名簿」に一致した名前があったからだ。

  当時、中村英雄氏や島袋正弘氏は浜崎(現健堅)の浜で薪を集めて火葬しているのを見ている。浜から少し上にあがったところに遺骨は埋葬された。その場所も特定でき、地主の方も遺骨収集について理解を示し承諾をしてくださった。ガマフヤーの具志堅さんによれば、薪の火葬は高温でないためDNA鑑定が可能かもしれないとのこと。戦後72年過ぎたが、朝鮮人の遺骨が特定されて故郷に帰った例は久米島の具仲會(日本名・谷川昇)以外にはまだない。平和の礎に今年、お父様の名前が刻銘された権水清さんは、刻銘によって子孫としてやるべきことの半分は果たしたが、残りの半分は遺骨を探して持ち帰ることだと述べられた。すでに今年79歳になられる。

 沖縄戦で犠牲になった朝鮮人は相当数に昇ると思われるが、日本政府はいまだにきちんとした調査を行っていない。犠牲者の特定はいまだになされていない。日本政府によって無理やり家族と切り離され動員されながら、戦後は外国籍として責任を負わない日本政府に朝鮮人は切り捨てられた。その「恨」は行き場のないまま深くこの沖縄の地に埋もれてたままになっている。

  墓標にあった金萬斗さんの遺族を韓国で探しあてた琉球新報社の李記者は、甥の金昌琪さんからお話を伺うことができた。「父金萬実と叔父の萬斗さんは一緒に連行されたが、萬斗さんは戦争が終わってもとうとう戻ってこなかった。父は日本で労役につき、ひどい拷問を受けた。刀で斬られたうなじにはくっきりと十字型の傷跡が残っていた。酒を飲んで思い出すたびに日本人の蛮行をののしり、一生家族が引き離されたつらさに苦しんだ。死ぬまで、戻って来ぬ弟萬斗さんのことを思っていた。」と語ってくれたそうである。そして萬斗さんについて「消息は全く無かったがまさか沖縄で亡くなっていたとは」と驚きを隠せない様子だったそうだ。沖縄で犠牲になったことさえ知らない家族は金萬斗さんだけの話ではない。日本政府が沖縄戦の朝鮮人に対して何一つ責任を取っていないことを重ね重ね痛感する。

  6月21日、来沖した李熙子(太平洋戦争被害者補償推進協議会)さん一行と本土の「戦没者遺骨を家族の元へ」連絡会の皆さんで、本部町健堅にある埋葬現場に駆け付けた。急な日程であったにもかかわらず、本部町立博物館長をはじめ地域の方々10人余りがすでに集まって私たちを迎えてくださった。戦争体験者を中心に二度と悲劇を繰り返さないよう次世代に引き継ぐ活動を地域で熱心にされている方たちである。埋葬地の地主の親戚でもある我部政男先生の進行で、火葬の様子や当時の状況を知っている方に説明を受け、現場を直接確認することができた。李熙子さんは埋葬された場所にお酒をまき、長いあいだ苦悩にまみれた魂の鎮魂を祈った。

  そしてこの日ガマフヤーの具志堅さんから重要な提案がおこなわれた。健堅の遺骨収集を北海道で行われた東アジア共同ワークショップのような形で、沖縄・本土・韓国の若者たちが手を携えてできないだろうか、遺骨収集の過程で共通の認識を持ち未来につなげていきたい、というものだった。戦争体験者が年々少なくなる中で、次世代への継承は急務である。地元の皆さんもからも応援したいという言葉があり、今後の方向性が見えた集まりとなった。 今後はその実現のための具体化がなされていくことになる。この遺骨収集を通じて何が見えてくるのか、そして何が生まれるのか、そして何よりも遺骨を家族のもとにお返しすることが急務である。

2017年9月5日(沖縄恨之碑の会 沖本富貴子)



以下は、墓標にある14名の方々です。

現在、遺族の方を探しております。お心当たりの方は当会にご一報ください

 

記載の順序は以下の通り。

墓標名、墓標にある身分、戦没船員名簿にある住所、現在の地名、生年月日、遺族の氏名・続柄、戦没船員名簿に記載されている職種等

 

1 横田茂、陸軍軍属、三重県一志郡七栗村、三重県津市、(昭4)1929.3.17、父 由雄、司厨部(しちゅうぶ)、 

2 金山萬斗(朝鮮名 金萬斗)、陸軍軍属、朝鮮慶尚南道南海郡、(大10)1921.11.2、兄 秀光、機関部、(遺族の方がわかりました) 

3 川部友吉、陸軍軍属、愛媛県越智郡宮浦村、愛媛県今治市、(大5)1916.7.19、父 紋吉、司厨部、 

4 明村長模(朝鮮名 明長模)、陸軍軍属、朝鮮全羅南道興蓬莱新錦もしくは朝鮮全羅南道高興郡、(大7)1918.4.14、妻 貴栄、甲板部 

5 高木藤次郎、陸軍軍属、北海道空知(そらち)郡栗沢村、北海道岩見沢市、(明40)1907.2.25、妻 フユノ、機関部

6 峯松良一、陸軍軍属、佐賀県杵島郡橘村、佐賀県武雄市橘町、(大14)1925.3.5、父 角太郎、事務員 

7 半田充祇、陸軍軍属、広島県御調郡(みつぎぐん)向島西村、広島県尾道市向島(むかいしま)町、(大3)1914.8.16、父貞一、航海士 

8 森重宜久、陸軍軍属、広島県甲奴(こうぬ)郡吉野村、広島県府中市、(明40)1907.5.19、妻 敏子、船長 

9 丸山利治、陸軍軍属、山口県下松市(くだまつ)西豊、山口県下松市(くだまつ)西豊井か?、(明31)1898.1.30、妻 定子

機関長 

10 中村進、海軍上等水兵、 以下不明

11 東郷富秀、陸軍軍属、 以下不明 

12 井上満五郎、陸軍軍属、山形県最上郡船形村、山形県最上郡船形町、(明28)1895.5.4、兄 勘助、甲板部 

13 倉知義行(船員名簿では倉知義昌)、陸軍軍属、愛知県丹羽郡古知野(こちの)町、愛知県江南市、(大15)1926.5.14、

父 清、司厨部 

14 植木基雄、陸軍軍属、兵庫県宍栗郡山崎町、兵庫県宍栗(しそう)市山崎町、(昭3)1928.9.6、父 春治、機関部

 


【2017年6月19日  琉球新報記事】

沖縄で空襲犠牲の朝鮮人、本部に埋葬 

戦闘動員、未収骨か  沖縄戦 沖縄戦72年  彦山丸 朝鮮人 遺骨 県戦没者遺骨収集情報センター

 

 1945年1月22日、本部町沿岸で日本軍の輸送船「彦山丸」が空襲を受け、戦闘に動員された朝鮮人を含む、少なくとも14人の陸軍軍属らが亡くなり、同町健堅に埋葬されていたことが18日までに分かった。沖縄戦開戦直後に米雑誌で掲載された写真や朝鮮人の死亡者名簿、日本軍作成の資料で明らかとなった。県戦没者遺骨収集情報センターには、埋葬地から遺骨が収集された公的な記録は残っていない。

 沖縄戦に動員された朝鮮人は戦後、生死の確認がなされず、沖縄戦での戦死を証明する公的書類が遺族に届いていない場合が多い。今回、埋葬地が明らかとなったことで遺骨調査などに発展する可能性もある。 45年5月28日号の米雑誌「LIFE」には「空襲によって殺された」として墓標が14本並んだ写真が掲載された。写真には墓標の脇に米軍とみられる兵士が立ち、奥には瀬底島が写る。  

 墓標に記載された名前のうち、強制動員された朝鮮人の死亡者名簿をまとめた「戦時朝鮮人強制労働調査資料集(竹内康人氏編著)」によると、「金山萬斗」「明村長模」の2人は45年1月22日に「彦山丸」で戦死したとされている。「半田充祇」は1月22日に死亡した記録は残るが、死亡した経緯は記されていない。

 旧日本軍の戦闘記録「独立混成第44旅団南西空襲戦闘詳報」(防衛研究所所蔵)によると、彦山丸は45年1月22日、敵機4機から銃撃や爆弾投下を受けた。さらに、救助に来た船も銃撃を加えられ、合計13人が亡くなった。  

 遺体が埋葬された土地は本部町健堅で、戦時中は漁師の我部政良さんの土地だった。我部さんの長男で山梨学院大学名誉教授の我部政男さん(78)は「未収骨の可能性がある。歴史の証言として掘り返して検証することが必要だ」と指摘した。埋葬地の道向かいに住む中村英雄さん(88)は「戦後、遺骨が収集されたことは見たことがない」と証言した。  

 沖縄戦に詳しい沖縄国際大の吉浜忍教授は取材に対し「1月22日の空襲の詳細は知られていない部分がある。特に名護湾で船舶が被害を受けていたことは、空襲が県内全域であったことを裏付ける事実だ」と語った。(池田哲平)