沖縄兵站慰霊之碑


所   在  地  糸満市字大里(県道25号線と県道7号線が交差する新垣交差点から、県道7号線を北に500mほど走った右側、県道沿いにある)

建 立 年 月 日      昭和46年10月10日

管      理      者    沖縄浜站慰霊之塔奉賛会

 

 第49兵站区隊本部、陸上勤務72中隊、同83中隊、特設水上勤務第103中隊、同第104中隊、独立自動車第215中隊、同第259中隊、球1616自動車中隊、同航空兵站中隊、沖縄防衛中隊、沖縄出身従軍軍属、那覇停車場司令部の戦没者を慰霊

 

 【特設水上勤務隊について】

 1944年7月、大邱に集められた慶尚北道の若者たちが「特設水上勤務第101~第104中隊」に編成され、沖縄に送られた。その数約2,800名、1個中隊が700名前後からなる4個中隊であった。      

 水勤隊は釜山から出港し、門司を経由、沖縄に向かった。102中隊は奄美・徳之島で途中下船し、1944年12月迄その地に駐屯した。残りの部隊が那覇港に到着したのが8月であった。101中隊はそのまま宮古・八重山に向かったために、この時点で沖縄本島にいたのは103中隊と104中隊であった。1944年当時、32軍に配備された部隊が続々と沖縄に入港し、それに伴って大量の軍需物資が運び込まれてきた。これらの陸揚げは、32軍直轄兵站部隊である「49兵站地区隊」の指揮命令(作命)を受け、水勤隊がになった。103中隊は那覇港で、104中隊は読谷の渡具知港と本部の渡久地港に分かれて軍需物資の陸揚げ運搬についた。翌年の1945年2月、姜仁昌氏らが所属した103中隊は慶良間諸島の座間味、阿嘉、慶留間に移動して行き、海上挺進第1、第2戦隊の指揮下に入った。また104中隊は1945年12月末那覇に戻って兵站業務に就いたが、第1小隊だけが45年2月慶良間諸島の渡嘉敷島に移動した。そこで彼らは海上挺進第3戦隊の隷下にはいった。一方、奄美・徳之島にいた102中隊は44年12月沖縄本島に移動してきて、名護と現東村の村川田村で主に坑木伐採の作業についた。(その後、米軍上陸前の1945年2月もしくは3月には那覇に集結している)

 作業時には日本人の監視がつき、些細なことにも厳しい体罰が加えられたうえ、食事は満足に与えられず、水さえも自由に飲めなかったという。腹を空かせた朝鮮人が奴隷のように扱われていた姿を地元の住民は見ている。

 45年3月末、米軍は遂に沖縄に上陸。本島にいた102中隊と104中隊の2個小隊は、訓練を受けないまま戦闘部隊に再編成され、米軍との地上戦に突入していった。前線への弾薬運搬や斬り込み、そして32軍の南部撤退時には艦砲射撃、砲弾の降りしきる中、物資後送に当たり、連日犠牲者を出して行った。ついに6月20日前後、南部の山城と新垣方面に追い詰められ部隊は壊滅した。102中隊の名簿には「大部分死亡か?」とメモ書きが残されてる。

 皇国の臣民として沖縄戦に動員され犠牲になった朝鮮人の数は計り知れない。しかし日本政府は朝鮮人軍人軍属について動員数を明らかにしておらず、生還者や死亡者、行方不明者について調査すらしなかった。そのために正確な状況がいまだにわかっていない。夫、息子、父の帰りを待ちわびる家族のもとには消息を知らせる一通の手紙も届けられなかった。朝鮮人の遺骨は故国に帰るすべもなく沖縄の地に埋もれたままになっている。当時当然受け取るべき俸給も支払われていないし、遺族への補償もないままだ。

 特設水上勤務隊の部隊名が刻まれた慰霊塔はここ一か所だけである。残念なのは102中隊の部隊名がないこと。おそらく『兵站地区隊の記録』には当初の編成部隊が記録されていたために、遅れて本島にやって来た102中隊名が抜けたものと思われる。

 ぜひ一度は訪れてほしいところである。(沖本富貴子記)