留魂之碑

所在地   石垣市

建立年月日 1998年6月23日

建立者   大田静男

* 現在 この碑は非公開となっており、立ち入ることはできない

 

【碑文】

「天皇の軍隊により 人間の尊厳を奪われ無念の死を遂げたアントン丸のひとたち 川平の慰安所で汚辱にまみれ死亡したババハルさん 久部良沖で銃撃にあい死亡し荒野に葬られた女性たち 彼等の御霊を慰め痛恨の叫びを胸に刻み永遠の平和を願いこの碑を建立する 1998年6月23日 大田静男」

 

 【安東(アントン)丸事件とは】

 1944年末、安東丸(一トン、中国船籍もしくは朝鮮船籍)が中国大連から九州に大豆と豆かすを運搬中、済州島付近で故障し、西表舟浮港沖で漂流していたところ、内離島に本部を置く重砲兵第8連隊第1中隊(中隊長小野藤一)、通称小野隊に救助された。(1945年2月頃という説もある)乗り組員は10数人(17人ともいわれる)で国籍が中国人、朝鮮人、それとも両者いたのかはっきりしていない。

 小野隊は積み荷をすべて取り上げ、引揚げた乗り組員を外離で陣地構築、塹壕堀りに酷使した。食事はろくに与えられず衰弱とマラリアで死亡者が出た。(2人、もしくは6,7人説あり)敗戦になるや、後で面倒になるということで生き残っていた10人前後を、西表西海岸の陸の孤島のような鹿川に連れて行き、食料も与えずに置き去りにした。6~7人が飢えとマラリアで死亡したと言われている。

 戦後、漁に出た村民が生き残っていた人を発見し救出、白浜まで送ったが後の消息は分からないという。その時海岸には干からびた遺体が転がっていたそうだ。また別な証言では、戦後小野隊が人を送って生存者4~5人を連れ帰り、台湾の憲兵隊に送るということで船に乗せたが、その後の消息は分からない、というのもある。いずれにしろ、島の人たちは鹿川の海岸に白骨死体があることを知っていて行くのを避けた。松山忠夫(石垣の特設警備工兵隊から帰ってきた祖納出身者)がイノシシ狩りに行ったとき遺骨を拾って洞窟近くに埋葬。その時は6~7体ではなかったかと証言している。後日墓標を立てたが徐々に波に洗われ、大きな台風の時にとうとう遺骨も流されてしまったということだ。

(注) この項は、大田静男『八重山の戦争』(南山舎、1996年)、および『第2次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査報告書』(第二次大戦時沖縄朝鮮人強制連行虐殺真相調査団、1972年)を参考にした

 

【川平のババハルさん】

 石垣島の川平湾に海軍の特攻艇基地(第19震洋隊)があった。格納壕構築には原田組に労務動員された朝鮮人も働かされていた。この近くに慰安所がつくられた。瓦屋根の由緒ある家が接収され、5人の女性が兵士の相手をさせられた。戦後ここから女性たちは引き上げて行ったが、ババハルさんは病に倒れ動けず一人残された。村の人たちはババハルさんの面倒を見たが回復の兆しはなくやががて亡くなってしまった。底地(すくじ)ビーチ近くの砂地の畑に埋葬され、小石が積まれていたが、その後整地され遺骨が不明となってしまった。大田静男さんらが再度捜しに行ったがやはり見つからず付近の小石を拾って来てババハルさんを供養した。

 

【久部良の「慰安婦」】

 「沖縄県史、沖縄戦記録2」に、与那国島久部良港沖であった「朝鮮人慰安婦の遭難」のことが載っている。宮古島で軍医をしていた池村恒正さんの証言である。それによると1944年末に、宮古から所用で台湾に行っていた池村さんが、帰りの船に乗って台湾のキールン港から宮古島に向かった時、朝鮮人の「慰安婦」53名も同じ船にのりあわせていた。途中与那国島の久部良港沖で停泊しているとアメリカの飛行機に執拗な攻撃を受け、甲板で何人かやられて死んでしまった。池村さんは命からがら船から離れて久部良の浜にたどり着いた。その時に助かった女性は7名しかいなかった。「湾になった港の付け根のところに小高い砂地の丘がありました。50体ほどアダンの枝を集めて火葬し、その丘に骨を埋葬しました。生き残った女性たちから名前を聞き、三文字の姓名を記し簡単な墓標を立てました。宮里さんという漁業組合長が警防団長も兼ねていて、その人が世話役になっていました。」そして生き残った7名の女性たちを宮古の野原越の師団管理部へ送り届けたということである。

 

 *池村さんの証言で46名の朝鮮人女性が、久部良港沖で犠牲になった事が証言されている。しかしこれ以上の詳しいことはわかっていない。地元での詳しい調査が急がれる。