恨之碑を訪れたら ちょっと足をのばしてみませんか?

読谷村 戦跡めぐり おすすめコース


 *各項目は読谷村観光協会のホームページなどとリンクしています。

  紫色に反転している項目をクリックするとリンク先を見ることができます

 

△▼△ 半日コース △▼△ 

 

① 座喜味城址 琉球王国が、日本、中国、東南アジア諸国との交易を通して繁栄した十五世紀初頭、築城の名人と言われた読谷山

        按司護佐丸によって築かれたと言われている。標高120m余の丘陵地に立地しており、最も高いところから読谷村の

        ほぼ全域を眺望することが出来る。城壁の曲線が美しく「日本100名城」に選定されている。沖縄戦当時は高射砲陣

        地が置かれた。琉球時代から栄えて来た読谷村の時の流れを風景と共に感じることができ、戦跡めぐりのスタート

        にふさわしい。〒904-0301 沖縄県中頭郡読谷村座喜味708−6

② 沖縄恨之碑 「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨之碑」沖縄戦に動員された朝鮮人犠牲者の追悼碑

③ 彫刻家・金城実 アトリエと屋外展示場 (恨之碑のレリーフ作成者でもある)〒904-0327 沖縄県中頭郡読谷村儀間121

         金城実の手になった彫刻には、魂が宿り、いまにも躍り出てこんばかりの勢いだ。見る者の心臓までえぐり取ら

         れてしまいそうだ。屋外展示場は沖縄の苦しみと平和への渇望、そして凛とした希望が再現されている。

         (この項のリンク先は「M.A.P.after5」のブログを利用させていただいています)

④ チビチリガマ (強制集団死のあった住民避難壕であり、遺族にとっては共同のお墓でもある神聖なところ) 読谷村波平1153

         アメリカ軍が沖縄本島上陸した1945年4月1日、住民避難壕の前まで米兵が迫ってきた。老人と娘たちが突っ込ん

         でいき老人二人が射殺されてしまった。壕内には恐怖が走り、鬼畜(きちく)アメリカ兵の捕虜になっては大変

         なことになる、特に中国大陸で従軍看護婦として日本兵の残虐さを見ていた女性は、アメリカ兵の鬼畜ぶりはそ

         れ以上だろうと恐れた。

         翌日1945年4月2日悲劇が起こった。再び壕の前に来た米兵は、出て来いと呼びかけるが、壕の中はパニックと

         なり、看護婦の注射で死ぬもの、毛布に火をつけ燃やすもの、カミソリで切るもの、肉親相互が殺しあうという

         凄惨な「集団自決」が行なわれた。約140人隠れていた住民のうち85人が非業の最期を遂げた。うち約6割が18

         歳以下の子供だった。

         このチビチリガマの悲劇は38年後になってようやく真相が知られるようになった。犠牲者の死を悼み、永久平

         和を祈念して1983年「チビチリガマ世代を結ぶ平和の像」が建立された。しかし完成からわずか7か月後、右翼に

         よる襲撃でこわされ、犠牲者は二度殺されてしまったといわれた。

         全国からのカンパで1995年再建されたが、三度目の悲劇がまた起こった。2017年9月、戦争を知らない若者が肝

         試しなどと称して平和の像の一部や額をこわし、千羽鶴を引きちぎり、遺骨を集めていたところまでめちゃくち

         ゃに荒らした。この事件は復帰後の若者世代(戦争を直接体験した世代から数えて3、4世代)に沖縄戦の教訓が

         真に伝わっているのかが問われることになった。                

↓ 

⑤ シムクガマ (住民避難壕、ハワイ帰りの二人の住民がアメリカ人は鬼畜でないと説得し、住民全員が投降し助かった壕、チビ

        チリガマと対比されて語られている) 読谷村波平438

        シムクガマには波平地区の住民約1000人程が避難していた。米軍が上陸した1945年4月1日、早くも米軍戦車がこの

        壕に近づいてきた。少年たちがすばやく竹やりなどで構えて一触即発になったが、ハワイ帰りの比嘉平治さん(72

        歳)と比嘉平三さん(63歳)は、「アメリカ人は殺さないよ、」となだめ、一方アメリカ兵には住民だけであるこ

        とを伝え、全員無事に投降させることに成功した。波平区民は戦後二人に感謝して「救命洞窟の碑」を建立した。

        じつはこの壕での悲劇はまだあった。天久昭源さんはこの壕に警防団員として集合していて助かったが、父は戦争

        で死に、母と4人の姉、妹の家族全員がチビチリガマで亡くなってしまった。一人生き残った天久昭源さんの戦後は

        どんなにつらいものであっただろうか? 荒れた毎日を送っていたある日、娘さんの言葉で立ち直り、三線の道に

        生きる希望を見つけたという。しかし死ぬまで戦争の話はしなかったそうだ。

        金城実は三線を引く天久昭源さんの像をチビチリガマの「世代を結ぶ平和の像」の中心に据えた。じっと見つめて

        いると天久昭源さんの悲しみが三線の音にのって伝わってくるようだ。 


△▼△ たっぷり1日コース △▼△ 

 

① 比謝川河口周辺  

   渡久地ビーチ(アメリカ軍上陸の地)

   渡具知港(比謝川河口、水勤隊=朝鮮人部隊が駐屯し軍需物資の陸揚げをした港 1944年9月から12月迄渡具知集落に駐屯)

   海上挺進隊秘匿壕跡(比謝川河口)

② 読谷村役場周辺の戦跡   

   不戦の碑広場読谷 村 座喜味 2346),

   読谷飛行場の特攻機掩体壕  32軍防衛築城隊もこの掩体壕の作業についた。この部隊の3分の1は朝鮮人であった。

③ チビチリガマ 

④ 金城実 アトリエと野外展示場

⑤ 沖縄恨之碑

⑥ 座喜味城址、もしくは「やちむんの里」(19の焼き物工房と、二つの共同売店)

 

△▼△ その他の見どころ △▼△ 

 

艦砲ぬ喰ぇー残さー歌碑【楚辺公民館】読谷村字楚辺1928-1

        「艦砲ぬ喰ぇー残さー」は、軽快なリズムと一見滑稽に見える歌詞の中に、家族を失った悲しみや、喰ぇー残さー

        となって生き残った者の覚悟のようなものが深く込められている。沖縄の戦争を潜り抜けたものにしか書けない歌

        詞であり、歌うほど聞くほどに心にしみてくる。作詞作曲した比嘉恒敏の4人娘・「でいご娘」が歌って大ヒット

        し、今なお歌い継がれている。

        2013年6月23日、比嘉恒敏の出身地、楚辺のユウバンタ内に歌碑がたてられた。碑の前には読谷の美しい海が一面

        に広がる。そして皮肉なことに米軍基地トリイステーションが金網を隔てて隣接する。

        

△▼△ お食事 おすすめどころ △▼△ 

 

都屋漁港内 海人(うみんちゅ)食堂、 読谷村字都屋33 

        「海鮮」好きにはたまらない海の幸を味わえる。豪快な海鮮丼から、大人気のモズク丼、とれたての魚を贅沢に

        使った魚汁などは絶品! お勧めは一匹丸ごと「こんがりバター焼き」

 

花織そば  読谷村波平2418-1 

        読谷の沖縄そば屋と言えば老舗の「花織そば」がイチ押し。たっぷり野菜の「野菜そば」がイチ押し。コラーゲン

        たっぷりの「てびちそば」、沖縄ならではの「みそ汁」といった定食メニューも豊富。

 

△▼△ お泊りは こちらがおすすめ △▼△ 

 

民宿 何我舎(ぬ-がや) 沖縄県中頭郡読谷村字波平174番地 電話番号 098‐958-5759(知花 )

         アットホームさが一番。夜、屋上にのぼると、ライトに照らされた普天間飛行場と嘉手納飛行場が見える。運が

         良ければ知花昌一さんの三線がきけるかも。(この項は、ぬーがやのホームページとリンクしています)