アリラン慰霊のモニュメント


所在地   渡嘉敷村里原(渡嘉敷島 地図赤印参) 

建立年月日 1997年10月

建立者   アリラン慰霊のモニュメントをつくる会

      デザイン・制作 陶芸家・伊集院真理子

                                

                                  アリラン慰霊のモニュメント赤い〇印 

【解説】 

アリラン慰霊のモニュメントはかつて日本軍の「慰安婦」として戦場に連行されたすべての女性たちに思いを寄せ、犠牲者を追悼し、この過ちを二度とくりかえさないよう後世に語り継ぐために建てられた記念碑。

 モニュメントは、拝所と人々が集う広場で構成され、全体として生命を表す大きな渦になっている。渦の中心である拝所には、このモニュメントのテーマである「還生」(ファンセン=生命が甦る)という言葉が刻まれている。

 裵奉奇さんの死に心を痛めた橘田浜子がモニュメント建立の呼びかけ人となり、多くの寄付によって私有地に建てられた。モニュメントの陶板は伊集院真理子、本田明が渡嘉敷に窯をつくって渡嘉敷の土を焼いてつくったものだ。ハングル誌文は、朝鮮の書芸家呉ソプによる。 

 

【碑文】 

 二次世界大戦末期、日本本土防衛の捨て石とされた沖縄の戦場に、朝鮮半島などから千余名の女性たちが日本軍の性奴隷として、また万余の男性たちが軍役の奴隷として連行されました。 海上特攻艇の秘密基地とされた慶良間の島々には、千余の「軍夫」が苦役に、21人の女性が「慰安所」につながれました。 

 1945年3月26日米軍上陸の前夜、住民たちは日本軍によって無念の死を強制されました。一方で「慰安婦」たち4人は非業の死をとげ、日本軍の迫害と虐殺による「軍夫」たちの犠牲は数百人にのぼります。 

 

「将兵に性を売った女」として、半世紀以上も歴史から抹殺されてきた20万人余の女性たち。 

その存在に光をあてた記録映画「アリランのうたーオキナワからの証言」(1991年監督朴壽南)の制作活動に参加した橘田浜子は、戦後、帰郷の道を失って沖縄に取り残された渡嘉敷の元「慰安婦」ペ・ポンギさんが死後五日目(1991年10月19日)に発見されたことに衝撃を受け、悲惨な犠牲を強いられた女性たちを悼み、心に刻むモニュメントの建立を呼びかけました。阿嘉島の垣花武栄をはじめ全国から資金が寄せられました。 

 

 渡嘉敷村の皆様からは、戦後初めて韓国から慰霊団を招きこの地で催した合同慰霊祭(1990年10月27日)が機縁ともなって、建立地の提供など物心にわたるご支援をいただきました。

 

生命を象徴する玉石は、韓国の彫刻家チョン・ネジン氏より寄贈された作品です。モニュメント制作には、伊集院真理子・本田明など県内外から多くの人が参加して、渡嘉敷に築窯、共同作業によって、完成しました。

 

 モニュメントの完成に至る年月は、日本の国家責任を問い、自らの尊厳の回復を求めて立上がった、アジアの被害者のたたかいと結び合い、私たちが歴史への責任を自らに課した日々でもありました。

 

 このモニュメントが、再び侵略戦争を繰り返さないために真実を語り継ぎ、生命の讃歌をうたう広場となることを祈念しつつ。

 

美しければ 美しきほどに 悲しかる 

島 ゆきゆきて 限りなき 恨

浜子 

1997年10月14日 

 

《渡嘉敷島の7人の朝鮮人女性たち》

 渡嘉敷島に連行され「慰安婦」、性奴隷にされた裵奉奇さん(当時30歳、1914年生)、「南の島では金が儲かる、バナナが落ちて口に入る」とだまされて連れてこられ、渡嘉敷島の赤瓦の家でアキコという名前で日本兵の相手をさせられた。赤瓦の家には同じような朝鮮人の女性が裵奉奇さんを合わせて7人おり、みな日本兵の相手をさせられた。裵奉奇さんは戦後故郷にも帰れず、沖縄に残って子守りや野菜売り、空き瓶拾い、水商売をしてどうにか生き延びていたが、体をこわしていた。生活保護受給の過程で「慰安婦」として沖縄に連れて来られたことがわかり、ようやく沖縄戦の「慰安婦」の存在が明るみにでた。1975年ごろのことである。

 佐敷で2畳ほどの小屋に住んでいた裵奉奇さんをお世話して那覇のアパートに連れて来たのは金賢玉さん夫妻であったが、徐々に落ち着きを取り戻していったのもつかの間、1991年誰にも看取られないまま旅立っていった。慰霊のモニュメントはこの裵奉奇さんの死をきっかけに1997年に建設されたのである。尚、川田文子『赤瓦の家』(筑摩書房、1987年)にこの辺の事情が詳しく述べられている。

 渡嘉敷への米軍上陸が1945年3月26日、この上陸に先立って23日から激しい空爆が始まった。赤瓦にいた女性のうちアイコ、ハルエ、ミツコは重傷を負い、ハルエは背負われて避難しているうちにまた機銃掃射を受け死亡した。ハルエの遺骨は、家が兵隊の待合所にされ、女性たちとも親交のあった新里吉枝さんが実家近くに埋葬していたが、白玉の塔が完成するとそこに合葬した。「天国から家を探して生まれ島に帰りなさいよ」と祈りがささげられたそうだ。アイコとミツコは座間味の米軍キャンプに収容され治療を受けたと言われている。キクマルとスズランは、6月30日、日本兵の曽根一等兵と朝鮮人軍属(特設水上勤務104中隊)二十数人らと一緒に男装して米軍に投降し、助かった。裵奉奇さんとカズコは軍の炊事や雑用をしながら島に残っていたが、8月24日、海上挺進第3戦隊(隊長・赤松嘉次)が降伏するのと一緒に米軍の捕虜となった。

 自宅が慰安所にされた仲村初子さんは「慰安所にされた家には家畜小屋に餌をやりに行っていたので、まだ少女のようなあどけない表情の娘たちが毎日のように目を真っ赤に泣きはらしている姿に、ちむぐりさん=肝苦しい=してました。とくに一番若かったミッちゃんとアイコは痛々しくてみていられませんでした」と語っている。

 慶尚北道から連れて来られた具順喜さんは、渡嘉敷の慰安所にいて重い性病にかかり水銀の治療を受けたが、その副作用に苦しみ戦後は廃人のように暮したということである。(「軍隊は女性を守らない」wAM、21012年)。渡嘉敷島にいた具順喜さんとは、7人の中の誰のことだったのだろうか。戦後の苦しみは、一人具順喜さんだけのことではない。

 日本軍の性奴隷となって沖縄を始めアジアの各地に連れていかれた女性たち。戦火と虐待でたくさんの女性が犠牲になる中、九死に一生を得て生き残った彼女たちに戦後待ち受けていたのは、ボロボロになった肉体と拷問の後遺症、そして何よりも消えなることの無い精神的な苦痛であった。

 どんな謝罪や金銭的な保証があっても、青春を奪われ、取り戻すことのできない人生を送らなければならなった彼女たちにとっては、おそらくなんの価値も持たないだろう。それだけ日本の犯した過ちは重く、永遠に消し去ることはできない。日本政府は真摯にこの問題に向き合っていくしかない。顔を背けず、彼女たちの「恨」が溶解するまであらゆる形でひたすら努力を続ける以外に解決の道はない。