ポンソナ講座


「沖縄戦犠牲者の遺骨収集とDNA鑑定について」

講           師 /       具志堅隆松氏(沖縄戦遺骨収集ボランティア「ガマフヤー」代表)

日時:場所 /  2017年5月20日(土) ぎのわんセミナーハウス

 

 

【基調報告】 具志堅隆松氏より

 

  沖縄戦の被害

 沖縄戦の人的被害の特筆すべきものを上げてみると、1944年8月22日の米軍潜水艦による学童疎開船対馬丸の撃沈による多大な子ども達の犠牲から始まり、米軍艦裁機による10月10日の那覇を中心とした空襲、翌年3月末には住民の集団自決が起きた慶良間諸島への米軍上陸と戦闘、そして4月1日の沖縄本島上陸後は住民を巻き込んだ日米の本格的な組織的戦闘は6月末まで続き、沖縄本島の南部地域における住民や兵士の戦死者数は沖縄戦全体の中で大きな割合を占める。戦闘の終了した後も本島中北部に米軍が設営した住民収容所に於いては9月末まで飢餓とマラリアの為多くの住民が「米軍による虐待死」とも言うべき死をとげる。沖縄戦における公式な死者数は米軍犠牲者もふくめ20万656人と言われているが、この数字には朝鮮半島から連れてこられた男女の犠牲者たちは入っていない。

 

  ガマフヤーの活動 

 私がやっている「ガマフヤー」の活動は、未だに収容されていない沖縄戦の犠牲者の遺骨の発掘収容作業である。目的は遺骨を家族の元へ帰すためである。対象としているのは先述の対馬丸の犠牲者から沖縄本島南部の軍民混在の戦闘地域、北部の住民収容所の埋葬地の未収容遺骨、そして与那国まである

 

   対馬丸遺体埋葬地 

 対馬丸については海没遺骨ではなく奄美大島西海岸への漂着遺体埋葬地の調査発掘である。この件についてはこれまでの調査から、現場を特定して厚生労働省に発掘を要請して去年実現したのだが、内容は心情的にお寒いものであった。大和村と宇検村の海岸二か所が発掘対象であったが、厚生労働省から来たのは二人だけで実質的な作業日数も四日間だけで二か所を掘るという本気度を疑う内容であった。両村の方たちがボランティアで協力してくれたのだが発見に至らずである。対馬丸遺族の方へは厚生労働省からの計画内容を話した時点で失望の色が見て取れたし、私もこれで奄美での発掘に終止符を打つには納得できないものがある。厚生労働省の対応には言い方は酷かもしれないがアリバイ作り的なものを感じるが、沖縄県にいたってはもっと酷いのである。沖縄県の担当部所に厚生労働省からの二人だけでは、海岸発掘の人手が足りないから遺骨収集情報センターの人間を作業要員として派遣してくれと要請したが、奄美は鹿児島なので出来ないと断られたのである。対馬丸の犠牲者はウチナーンチュで、それも子ども達である。その子ども達に県外疎開を指導実行したのは当の沖縄県である、にもかかわらず沖縄県は遺骨収集に協力すらしなかったのである。

 

    慶良間の朝鮮人軍夫 

 慶良間諸島の戦争犠牲者の遺骨については狭い島の中での集団自決という背景を考えると、善意とはいえ部外者が介入することが出来ないものと感じている。犠牲者は摩文仁の国立戦没者墓苑でなく島の中で親族により弔われるのが自然であろう。しかし慶良間には別の課題がある。朝鮮人軍夫の犠牲者遺骨の存在である。阿嘉島の海岸で日本軍により処刑された朝鮮人軍夫たちの遺骨は、戦後島の人たちの手により掘り出され座間味を経由して沖縄本島に送られたというが、埋葬されていたという場所はほぼ分かっているので、埋葬の痕跡だけでも確かめて事件が事実であるということを確認する必要があるのではと思っている。慶良間諸島全体における朝鮮人犠牲者の数や場所の把握もほとんど出来てない、遺骨の存在が考えられるような戦死場所や埋葬情報などが読者の周りにあれば寄せてほしい。

 

  沖縄本島 

 沖縄本島において地上戦が行われた地域の戦没者遺骨は、戦後早い時期に収容所から解放されて、それぞれの部落に帰ってきた住民の手により兵隊も住民の遺骨も区別なく集められ、部落のはずれの岩下やガマなどに納められた。おそらくどの様な作業より真っ先に始められたのが遺骨収集である。それは破壊された家を建て直すにも、食料を得るための畑を再開するにも、道を歩くにも横たわるミイラ化した戦死者の死体や遺骨を片付けなければ出来なかったからである。当時の住民の生活の範囲内にある遺骨は収容されていくが、普段足を踏み込むことのない周辺の山の中などは、更に生活が落ち着いてからの共同作業となる。さらに沖縄が1972年に本土復帰して後は、日本本土との往来が自由になったため本土の遺族会や戦友会などが団体で遺骨収集に来るようになった。現在の我々がやっている遺骨収集作業は、終戦直後の住民や本土から来た遺骨収集団が取り残した遺骨や、まだ調査されたことのないガマや防空壕、あるいは深い岩の割れ目に降りて探すようなことをやっている。 

 

  収容所内の埋葬地遺骨 

 沖縄戦に於いて犠牲者が発生するのは、日米両軍の戦闘が展開された戦場だけではなかった。戦場で米軍の捕虜になった住民(本来住民の場合は捕虜ではなく保護と言わなければいけないのだが、これまでの聞き取りで「保護」と表現する人は一人もなく、自らを日本兵と同列に捉えている。これは皇民化教育、軍官民共生共死思想が影響していると思われる)は米軍の設営した住民収容所に収容されたのだが、収容所内においても多くの住民が生命を落とすのである。原因は飢餓とマラリアである。逃げることの許されない強制収容であるにもかかわらず、食料が必要分与えられず、ほぼ全員が飢餓状態になり、そこへマラリアが蔓延し体力の無い年寄りや子供たちが犠牲になっていったのである。これは米軍による住民収容所における集団虐待死である。このことを収容所で身内を亡くした遺族に話を聞くとほとんどの遺族が「病気で死んだ」という言い方をする、それに対して私は「病気ではなく戦死ですよ、戦死には戦闘死と戦争死があるんですよ」と言うのだが遺族には南部の戦場で亡くなった犠牲者に対して捕虜となって収容所で亡くなることの引け目が感じられる。これも皇民化教育の残した心の傷であろう。 

 尚、各収容所には埋葬地があって多くの犠牲者が埋葬されたのであるが、埋葬の際に縁故者が目印となるような物を設置したケースはよいのだが、一人で収容され死亡して埋葬された犠牲者は、今もって埋まっている可能性がある。北部の収容所埋葬地はほとんどが現在では土地活用されており、 わずかに土地活用されてない宜野座村漢那の海岸のスンブク原埋葬地で、不定期ながら発掘を継続 している。

 

   兵隊収容所 

 北部の金武町には日本兵の収容所があった。そこでも多くの日本兵や沖縄人軍属が亡くなっていて、米軍は兵隊収容所の死亡者については名簿を残している。その中にはわずかではあるが朝鮮人と思われる名前もある。手元にある資料によれば「カ・ソゼン」「パク・ヒキュウ」「イイ・シモク」などがある。2016年7月に収容所の埋葬地を厚生労働省に要請して発掘してもらったが遺骨は確認できなかった。米軍収容所における埋葬記録は、ほとんどの犠牲者が戦死場所不明になっている沖縄戦で数少ない死亡場所記録でもある。

 

   DNA鑑定

 話をDNA鑑定に移したい。本稿の始めに「ガマフヤー」がやっている遺骨収集の目的は家族の元へ帰すことだと述べたが簡単ではない。むしろほとんどのケースが不可能だと言える。理由は見つかる遺骨のほとんどが、身元不明遺骨だからである。通常、70年以前の沖縄戦の頃の遺骨が見つかる場合身に着けていた衣服は朽ちて残ってなく、骨だけの状態で見つかる。ただし兵士や軍属の場合は日本軍特有のボタンが残るが、住民だと基本的に着物に帯なので骨だけしか残ってない。住民と思われる遺骨が崖下や古い墓の中で見つかると、風葬遺骨と区別がつかないため収容してよいのか判断に迷うことがある。片や兵士の場合は戦死後も身元が分かるように認識票を身に着けることになっているがこの認識票が見つかることがほとんど無い。このことを沖縄戦の生き残りの元兵士に何度か訊いたことがあるが返ってきた答えは、認識票を着けたまま死なれたら敵にどの様な部隊がいたか知られるので、認識票を取り上げられて上の者が持っていたというような内容であった。それを裏付けるように認識票が13枚ほど重なって出てきた事例を3件知っている。この13名という数は日本軍の部隊内の人員編成の最小単位である「分隊」の人数である。おそらく分隊長がまとめて持っていたということであろう。認識票は将校以下の一般兵は名前でなく番号が刻印されている。これまでに出土した認識票を遺骨の代わりに遺族にお返ししたいと厚生労働省に申し出たことがあるが、厚生労働省からの返事は名簿がないので分らないというものだった。認識票というのは所持している兵士が戦死後遺体の身元を判明できるようにするのが目的であるが、戦時中においては国に取り上げられ、戦後は名簿が無いから分りませんと言う。これでは国により徴兵され戦地へ送られ戦死した国民は国に「使い捨て」にされたということに他ならない。 

認識票以外に個人の身元特定につながる出土品として遺骨収集の際に注意するのが名前の記名された万年筆やアルミ製の水筒、飯盒やセルロイド製の石鹸箱などである。しかしこれ等の物が判読可能な状態で出てくるのは5パーセントにも満たない。そしてこの様な経年変化のない材質で作られた遺品を持っているのは兵隊だけであり、当時の沖縄の一般住民にはほとんど手に入らない物ばかりである。遺骨だけでなく記名遺品の発掘に必死になっていた頃アメリカでは戦没者遺骨の身元特定にDNA鑑定が用いられていること知った。日本政府に沖縄戦遺骨にもDNA鑑定を採用させるにはどうしたらよいか思いを巡らせていた2003年にシベリアの埋葬地から発掘された大量の日本兵遺骨に厚生労働省が大規模なDNA鑑定を行い800体余りが遺族の元へ帰ることが出来たとのニュースが入ってきた。すぐさま厚生労働省に沖縄の戦没者遺骨にもDNA鑑定を実施するように要請したが担当の職員から返事は「沖縄は南方地方のため遺骨の劣化が早く骨の中にDNAがシベリア程は残ってないのです」という前向きでない姿勢であった。それでも押しつけるように何回か遺骨のDNA鑑定を申請したが、骨から必要分のDNAが抽出できなかったという結果が続いた。意気消沈はしたものの希望は捨てなかった、DNA鑑定に関する科学技術の発達に望みをつないでいたのだ。事態が画期的な展開を見せたのは2011年2月であった。緊急雇用創出事業として那覇市真嘉比で発掘された戦没者遺骨が沖縄で初めてDNA鑑定で身元が判明したのである。このとき判明した戦没者遺骨は172体の出土遺骨の中で唯一名前の刻まれた万年筆を持っていた千葉県出身の朽方精さんであった。朽方さん以後真嘉比からは田寺光紹さん、橋本雪正さん、そして2014年には浦添市前田の前田小学校正門前の道路工事現場から発掘された田畑耕三さんがDNA鑑定で遺族の元へ帰ることができた。 

 朽方さんが判明してからすぐに国に対しては「沖縄戦戦没者遺骨のDNA鑑定を」そして沖縄県と県議会には「収容された戦没者遺骨の火葬禁止」を要請したのである。あまり知られてないことだが沖縄で発見された戦没者遺骨は、沖縄県援護課に引き渡され、援護課は国の意向を受けて毎年年度末に遺骨を火葬して摩文仁の国立戦没者墓苑に納骨していた。問題は遺骨を火葬してしまうとDNA鑑定が出来なくなってしまうことである。国、県とも紆余曲折はあったが取りあえず要請は容れられた。容認されたとは言え国・県ともに問題を含んだ容認であった。沖縄にあっては2013年から火葬が止まり遺骨が保管され始めるのだが2015年6月時点で保管された600体余りになり、県は仮安置所が満杯になるので火葬を再開すると表明したのだ。私はすぐに議会および県当局に「戦没者遺骨は物ではない、仮安置所が狭くなったのなら広くすればよい話で、犠牲者遺骨にも家族の元へ帰る権利はある。そもそも沖縄県が行っている戦没者遺骨の火葬は遺族の了解を得たものではなく、戦没者がDNA鑑定によって帰ってくるという遺族にとっての利益・権利を沖縄県が勝手に侵害するものである」という火葬禁止の再要請を出したのである。再び火葬は止まり現在に至る。    一方国の対応にあってはもっと酷い。沖縄戦戦没者の遺骨をDNA鑑定すると発表したものの、それは名前のある遺品と共に出土した場合のみという条件付きである。記名遺品と共に遺骨が見つかるケースは5パーセントもなくほとんどの遺骨はDNA鑑定の対象外で「進展」とは呼べないものであった。私は国に対して「記名遺品の条件付きではほとんどの遺骨が対象外になってしまうので記名遺品条件を外してほしい」という要請を出した。時間はかかったが記名遺品条件は外された。2015年5月13日に管官房長官が「遺品がなくても、ご遺族にDNA鑑定を呼びかけ、気持に応えるのは政府の役割」とニュースで表明していた。ニュースだけを見ればいかにも国が戦没者と遺族に配慮しているかの様に映る。しかしDNA鑑定に用いる遺骨からの検体は「歯」のみというカラクリは温存され、遺族や国民が気がつかないうちに多くの遺骨をDNA鑑定参加からふるい落としてしまうのである。火葬禁止で沖縄に貯まった600体余りの遺骨の中で、歯がある遺骨は15パーセント未満の87体しかないのだ。これは戦場における戦死の形態からすれば当然で、特に沖縄戦におけるアメリカ軍の攻撃による致死率は小銃銃撃より艦砲射撃に代表されるような砲爆撃によるものが多いのである。したがって見つかる遺骨も爆弾の強力な爆発により体がバラバラに引きちぎれて飛び散ったような状態が推定される。たとえ損壊されなかった死体でも、地表で骨になったあと台風や大雨で分散し、さらに草木におおわれ一人分の遺骨としての個体性が失われてしまい、歯の付いた頭蓋骨が探せるとは限らない。国に歯を検体とする根拠をたずねると「歯は堅いエナメル質に覆われていて歯髄が保護されてDNAが抽出できる可能性が高い」ということである。確かにそうだとしても歯以外の骨からもDNAが抽出出来るのは常識である。むしろ海外においては歯はDNA鑑定における検体としての採用優先順位は低く、四肢骨の方が優先的に検体として採用されているのだ。四肢骨をDNA鑑定の検体として採用することの意義は歯だけを検体にする場合に比べ対象遺骨が数十倍に増えることである。私は国に対して歯以外の四肢骨なども検体として採用するように要請を起したのだが、その答えはさらに別の要請とリンクして採用とも不採用ともつかない形で姿を現してきた。

 

   戦後70年目にして遺骨収集法律化

 別の要請とは遺骨収集の法律を作るようにという要請である。ことの始まりは国が自ら積極的に戦没者の遺骨収集をしないので、どうしてやらないのかと何気なく聞いたことからである。国の答えは「私達公務員は法律に依ってしか動けないのです、遺骨収集には法律がないのです」であった。なるほどとも思ったが時間が経つにつれてだんだん腹が立ってきた。国民を徴兵して戦死させて70年間もよくも何もせずにいてくれたものだ、官僚も官僚だが議員も議員である。それをぬけぬけと法律がないのですと言えたものである。それでも結果的にはこの遺骨収集の法律は2016年4月には成立した。法律の中で遺骨収集を国の責務と位置付け家族に帰すことを法の目的とした点は評価するが、問題があるのは、その後発表された遺骨収集の具体的な作業の手順を記した「戦没者遺骨収集の作業等要領」である。問題個所は四肢骨を検体にする条件として発見される遺骨の状態に「個体性」を求める部分である。分かりやすく説明すると

○ 遺骨が歯が付いた状態で見つかれば歯を検体とする

○ 歯が無い遺骨で一体だけで見つかれば四肢骨を検体とする

○ 歯が無い遺骨が複数体見つかり、一体づつに分けることが出来なければ「個体性」が無い遺骨としてDNA鑑定はしない

 この基準を現在沖縄でDNA鑑定の採用からもれた513体の遺骨に適用すると、ほとんどの遺骨が再び不採用になってしまうのだ。四肢骨を検体として使うにあたり「個体性」を条件つけること等の撤回を求め2017年1月17日に参議院議員会館で厚生労働省に「戦没者遺骨収集の作業等要領」の全面見直しを求める声明文を手渡し要請した。この件は他の問題と共にまだ追及していく。遺族でなくとも主権者として。

 

   韓国訪問と鑑識団について

 2016年12月韓国を訪問した。日本軍軍属として戦死した韓国人遺族との交流と、沖縄における遺骨収集とDNA鑑定の現状を報告するためである。現在、韓国人遺族の日本政府に対する要請として、日本で行われるDNA鑑定事業に軍属戦死者の遺族も参加させてほしいというのがある。これについては参議院の厚生労働委員会において民進党の議員が質問に立ち、塩崎厚生労働大臣は韓国政府から韓国人遺族のDNA鑑定のデーターを提出してもらえれば対応する旨の答弁をおこなっている。これが直近の状況であるが、韓国内おいては女性大統領の去就が取りざたされており、新政権にならないと韓国内の状況は進まないだろうというのが参加者の声だった。 韓国訪問の際にぜひ訪れたかったのが韓国で朝鮮戦争の犠牲者遺骨の発掘とDNA鑑定及び遺族への返還業務を担っている「韓国国防部遺骸発掘鑑識団」(以下・鑑識団)である。急な申し出にもかかわらず快く応じていただいた。鑑識団の訪問で知り得た内容は私にとってショックだった、この年の4月には日本でもやっと遺骨収集の法律が出来て喜んでいたのだが、鑑識団から帰るときには喜んだ自分が馬鹿に思えてきたくらいである。「何が?」と訊かれたら、すべてがである。先ず、日本で成立した法律は10年間だけやるという時限立法である、それに対して韓国では鑑識団の施設でもらえるパンフレットに「国は戦没者に対して永久的に責任を持つ」とある。この落差には脱力感を覚えた。そして日本ではDNA鑑定を行うにあたって韓国の様な専門の国営施設を持っているわけではなく、いくつかの大学に分散発注しているのだ。つまり場当たり的対応でしかない。大学間で判断や基準の差が生じないだろうか。2017年3月27日の参議院予算委員会で民進党の白議員が安倍首相にDNA鑑定施設の必要性を質問したが、首相からはピントのずれた答弁になっていた。国営のDNA鑑定専門施設は緊急の課題である。実は国営のDNA鑑定の施設の沖縄県内設置を求める要請を沖縄県議会の文教・厚生委員会は2014年3月に厚生労働省に対して行っているのである。 さらに日本では行われてないが韓国で行われていることには次のようなのがある。

○ 日本では遺骨からの検体は歯のみであるが韓国では四肢骨が主流で歯はその次である

○ 日本では四肢骨を検体とするには「個体性」を条件付けるが、韓国では一本の骨、あるいは骨片でも帰すべき人間の骨としてDNA鑑定の対象とする。

○ 日本ではDNA鑑定の対象遺族の選定は地域を限定するが、韓国では全遺骨と全遺族の照合

○ 日本では遺骨をDNA鑑定前にも火葬しようとするが、韓国では鑑定後も遺族の判断に国は従う

○ 日本では国民や遺族に対してDNA鑑定参加の広報が行われないが、韓国では保健所・墓地入口に広報板があり広く広報されている ○ 韓国ではDNA鑑定の結果が不一致だった遺族に対して毎年新たな遺骨との照合結果が通知される

○ 韓国ではDNA鑑定で一致したら、遺族の意志を確認して国立墓地への埋葬も可能

○ 韓国では戦没者に対する事業はすべての遺骨が発掘されるまで永久的に続く

  ここまでをみると戦後処理に関して、あるいは戦没者への対応については、日本は後進国である。歴代の首相や大臣が靖国神社に参拝する理由を「国に命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるために」等と表明していたのが空虚なリップサービスにしか聞こえない。戦争犠牲者がたとえ遺骨であっても家族の元へ帰すのは犠牲者を徴兵し戦地へ送った国の責任である。しかし国が責任を果たさないのであれば国民が国を追及するのは当然である。

「国防部 遺骨発掘鑑識団」

正面玄関上段「6.25戦死者遺骨発掘事業、私たち皆の大切な責任だ」と書かれている