天皇の軍隊に虐殺された久米島住民・久米島在朝鮮人 痛恨之碑


所在地   久米島町字西銘(大田辻/清水小学校北側)

建立年月日 1974年8月20日

建立者   沖縄在・在日朝鮮人久米島島民虐殺痛恨之碑建

      立実行委員会

 

【解説】  

 東シナ海に浮かぶ久米島は周囲が53,3キロの小さな島で、当時の人口は12,000人程。島には具志川村と仲里村の二つの村があった。沖縄戦当時この島に駐屯していたのは海軍の電波探信隊(隊長・鹿山正)で隊員数はわずか30余名。(この他に阿嘉島や沖縄本島から逃れて来た陸軍兵士や不時着した航空兵など、はっきりしているだけで10人余がいた) 

 米軍が久米島に上陸してきたのは、1945年6月26日のことである。数日前の23日(実際は22日)には32軍(沖縄守備軍)の司令官・牛島中将が自決しており、もはや日本軍は組織的な戦闘が不可能になっていた。米軍が壊滅した日本軍の掃討と制定に入っていった時期である 

 6月26日、久米島に残っている日本軍の制圧に向かった米軍は、武力鎮圧といった強攻作戦を取らず、住民に投降を呼びかけ、徐々に島内を軍政下におくという方針を取った。次第に住民たちも山を下りはじめ米軍政下に入っていった。 

 一方孤立無援となった鹿山隊は、山に身を隠し(のち住民に説得され下山し、分散して隠れた)、住民に対しては、米軍に寝返らないよう見せしめの虐殺を繰り返した。住民を守るどころか、自らの延命のために、米軍と接触した、スパイだ、と罪のない子供や乳飲み子まで、残虐なやり口で20名の住民を殺した。鹿山隊による虐殺は、6月27日から始まり、8月20日(8月15日を過ぎている!)まで、4度に及んだ。ようやく彼らが投降したのは9月7日になってからである。尚、米軍がこの島から最終撤収したのは10月27日であった。

  痛恨之碑は『わんがうまりあ沖縄』『隠された沖縄戦記』などの著書がある富村順一と、彼に賛同する桑田博、古波津英興らが中心となって完成された。富村順一は伊江島の国民学校在学時、あまりにものどの渇きに苦しんでいた朝鮮人に、馬のためにくんできた水を勝手にやったということで体罰を加えられ、その後放校となっている。日本軍の『朝鮮人慰安婦』について怒りを禁じ得ず東京タワー事件を起こした。

 

【久米島 鹿山隊の虐殺】  

1945年

3月26日 米軍慶良間諸島上陸、沖縄の地上戦開始

4月  1日 米軍が北谷、嘉手納の海岸から上陸

6月23日 32軍司令官牛島中将をはじめとする司令部が自決。日本軍、組織的戦闘の終焉

6月26日 米軍、久米島仲里村銭田に上陸。同日、謝名堂、真我里迄進出

6月27日 米軍、具志川村の仲地、北原まで進出 

    鹿山隊、久米島郵便局の安里正二郎(当時26歳)さんを虐殺

    米軍が上陸した日に捕虜としてつかまった安里正二郎さん(首里平良町出身で、久米郵便局の有線電話保守係として仲里村

     山城に駐在中だった)は、米軍の指示で鹿山隊に降伏勧告状を持って行かされた。鹿山隊長は安里さんに会うなり「スパ

     イ」の汚名を着せ銃殺、さらに刺突し惨殺した。妻のカネ子さんは、悲しみと恐怖のあまり数日後山田川で投身自殺。 

6月28日 米軍、儀間、鳥島、上田森にも進出 

6月29日 北原地区の2家族とその親族、北原区長ら合わせて9人が虐殺される 

    米軍の久米島上陸に先立つ6月13日、ひそかに久米島に上陸した米軍は、北原地区の住民比嘉亀さん(67歳)と宮城栄明

     さん(39歳)の義弟・の孫一郎さん(17歳)と使用人の3人を拉致した。彼らのうち使用人を除く2人は、26日の久米島上

     陸時に解放され、家に戻ってきた。これを知った鹿山隊長は、宮城栄明夫婦(妻ツル)と妻の弟・孫一郎、比嘉亀夫妻

     (妻ツル・67歳)とその長男夫婦(夫・定喜さん・22歳、妻ツル・20歳)の計7人に、北原区長の小橋川共晃さん、警防

     団長の糸数盛保さんの2人を加えた9人を宮城栄明宅に集めさせ、銃剣で殺した。その後火をつけ死体もろとも焼き払っ

     た。

      「手足を針金で縛り、目隠しをして立たせ、1人1人刺していったが、ひと突きでは死ななかったために、のたうち回っ

     ている9人を何度も刺して殺した」と、当時鹿山隊の一人として現場にいた沖縄出身兵が後に証言した。

      直ちに出頭しろという命令に背いたと言うのが表向きの理由った。しかし区長らも含めて殺したのは、米軍と接触し

     たらこうなると村全体に知らしめ、恐怖心を抱かせるための見せしめであった。 

7月14日 仲里村の村長に与座曾光が就任。米軍政府側と会合。軍政布告第1号発布、仲里村の軍政開始 

7月24日 具志川村側と米軍側との正式な会合、軍政布告第1号発布、具志川村の軍政開始。

8月15日 天皇がポツダム宣言受諾放送、無条件降伏

8月18日 仲村渠明勇さん一家3人を虐殺 

     久米島に在住していた仲村渠明勇さん(当時24歳)は、沖縄戦当時、海軍上等兵として本島で従軍していたが、捕虜と

     なって嘉手納収容所に入れられた。そこで、米軍が久米島に艦砲射撃を加えて上陸する計画を知った仲村渠さんは、島は

     無防備であり、住民が多数犠牲になるので艦砲射撃はやめるよう米軍に訴えた。米軍はさらに情報を得て久米島への艦砲

     射撃をやめることにし、代わりに仲村渠さんを上陸時の道案内人とした。仲村渠さんは島の人々に、米軍は危害を与えな

     いから下山するよう説得して回った。これを聞いて下山する住民が多かった

     妻子と一緒に錢田でひそかに暮らすようになった仲村渠さんは、鹿山隊に狙われていることを知り、親元親戚には近づ

     かず、夜間説得に回るなど用心をしていたが、遂に居場所が見つかってしまった。8月18日村民に変装した鹿山隊が仲村渠

     さん宅を襲い、妻と子供の家族3人全員を刺殺し、家に火をつけ焼き払った。   

8月20日 谷川昇(朝鮮名・具仲會)さん一家7人虐殺 

     谷川昇さんは、国頭郡久志村(現名護市久志)出身のウタさんと結婚、国頭に住んでいたが、1943年ごろ久米島に渡っ

     てきた。具志川村上江洲に住んでいた谷川家の家族構成(事件当時)は、長男・和夫(10歳、国民学校4年)、長女・綾子

     (7歳)、次男・次夫(5歳)、次女・八重子(2歳)、生後わずかの乳児、の5人の子供と妻ウタ(37歳)、谷川昇本人

     (51歳)の7人であった。

      すでに鹿山隊に狙われている噂は数日前から伝わっていて、ウタさんは警防団長に助けを求めたりしていたが、旧盆入

     りの8月20日、村人に変装した鹿山隊に襲われ一家7人が皆殺しされた。乳飲み子を抱いたウタさんと和夫くんは外に逃げ

     出したがすぐに追いつかれ、3人とも斬り殺された。長女と次女は家から連れ出されて山里の雑木林で絞殺された。鳥島の

     海岸近くの防空壕に隠れていた谷川さんと次男の二人も鹿山隊に見つかり、谷川さんは首に縄を巻き付けたまま引きずら

     れ息絶えた。護岸から投げつけられた谷川さんの死体の上にさらに次男が投げつけられ、谷川さんに取りすがって泣きさ

     けぶわずか5歳の子供を軍刀で切り付け惨殺した。

      住民の間でも朝鮮人に対する偏見があり、谷川さんの何でもない行動までが疑惑を持たれ、スパイ視されていくように

     なった。米軍上陸後はますますひどくなり、鹿山隊は根拠もなしにスパイと断定し、罪のない家族まで皆殺しにした 

9月   2日 両村の区長、米軍、鹿山隊の代表が集まり、降伏の調印がなされる。

9月   2日 東京湾のミズリー号上で、連合軍にたいする降伏調印。

9月   7日 鹿山隊及び陸軍兵など、久米島で日本兵投降。このときの日本兵は全部で41名だった。

       沖縄本島では旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で、宮古の第28師団長・納見中将、奄美大島の高田少将ら代表が降文書

     に調印。 

10月27日  久米島から米軍が引き揚げる

1977年   高尾常彦氏(韓国人慰霊塔建立委員会の常任顧問として碑の建立に尽力)が釜山の家族のもとに具仲會氏の遺骨を届け

     る

1977年12月 具仲會氏の遺骨、ソウル郊外の「望郷の丘」に納骨される 

右側の三枚の写真は、福地廣昭『哀号・朝鮮人の沖縄戦』(月刊沖縄社、1986年)より。

左より2枚目 昭和17年ごろ、ウタさんから久志の実家に送られたウタさん親子の写真

左より3枚目 1972年8月9日付 韓国の新聞に掲載された谷川さん一家虐殺の記事。「解放直後 日敗残兵に虐殺される」「米軍 ビラを渡したと スパイにされる」などの見出しと共に、甥の具磁植氏が各界に遺骨送還をうったえているという内容も書かれている。

右端上段 谷川ウタさんと子供二人が日本兵に斬り殺された場所。下段 谷川さんが次男と殺された鳥島の護岸